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山口近代建築ノート第77回「山口市立白石小学校旧講堂」~火災からの復興 耐震耐火で

▲南側外観。耐震、耐火を第一に考慮した鉄骨鉄筋コンクリート造。細部意匠はなく、湾曲した南側の壁、列柱、大きな開口が印象的だ(2002年7月撮影)
〔右〕1階平面図。ステージへの眺望が効くよう最前列から最後列まで床が高く傾斜し、予備室・玄関ホール上に二階床が乗る構造(参考論文内の図を加工)
〔上左〕講堂内部。当初は簡素な長椅子が並んでいたが、後年ゆったりとした座席に取り換えられた
〔下左〕吹抜けのある玄関ホール。丸柱に支えられた斜めの大きな梁と床の上に、後列の座席が乗る

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令和5年9月24日(日)、山口新聞「やまぐち近代建築ノート」77回が掲載されました。
今回は、市の公会堂としても使用された「山口市立白石小学校講堂」です。

この設計者は、蔵田周忠(ちかただ)。山口県の萩出身です。
「分離派建築会」に参加し、表現主義やモダニズムの作品を手掛けた建築家でした。
蔵田は、弟子でもある市建築課長の柳田次郎らとも連携しながら、25年7月山口市役所庁舎、同年12月白石小学校校舎、そして翌26年6月には白石中学校校舎と、次々と公共建築を完成させます。
いずれもRC造、白亜のモダニズム建築として姿を現していきました。
この講堂は蔵田の、山口市における4作目でした。
それらの建物はすでに20年前に解体されていますが、山口県の近代建築史からすると、必ず記録しておかねばならない建築だったのです。

以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(画像がクリアに大きく見えます。画像・文とも無断転用不可。)

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山口市は戦災を受けず、戦後も市街地中心部に木造建築が密集する状況が続いていた。
そんな中、昭和23年、繁華街の中市町にあった山口市役所が全焼。
翌24年には、白石小学校の第一校舎と講堂が焼失と、公共建築の被災が続いた。
各地が戦災復興に取り組み、建築技術者も不足する中、市がこの復興建築の設計者に選んだのは蔵田周忠(旧姓濱岡、1895~1966年)であった。

蔵田は、「分離派建築会」に参加し、表現主義やモダニズムの作品を手掛けた建築家だ。
武蔵高等工科学校(現武蔵工業大学)で建築教育に携わり、国内外の近代建築の研究などにも多くの業績を残した。
彼に依頼した経緯については不明だが、萩出身の建築家という肩書が物を言ったのかもしれない。
蔵田は、弟子でもある市建築課長の柳田次郎らとも連携しながら、次々に設計をまとめる。
25年7月山口市役所庁舎、同年12月白石小学校校舎、そして翌26年6月には白石中学校校舎が、いずれもRC造、白亜のモダニズム建築として姿を現していった。

この「白石小学校講堂」は、蔵田の市内4作目。
SRC造2階建てで、27年9月に竣工。
正面外観は高さ11mのゆるく湾曲したモルタル壁面と6本の列柱、その柱間は格子に組まれた鉄サッシとガラスで構成される。
内部は千百人分の座席を持つ吹き抜けの大空間だが、壁はモルタル塗り、天井は木毛板に水性塗料を塗っただけの簡易な仕上げだ。
蔵田の「…骨組みさえ耐震耐火の構築としておけば、表向きの仕上げは後日何とでもできるはず…」の言葉には、当時の厳しい経済事情の中での設計の苦労がにじみ出ている。

思えば54年前、15歳の私が初めて生のクラシック演奏を聞いたのは、この講堂だった。
当時は、市の公会堂にも使われていたのだ。
市民の様々な想い出の詰まった蔵田の建築作品は、平成期に全て取り壊された。
だが、困難な時代に、不燃かつモダンな教育、文化施設を生み出した彼らの苦労と功績に、時には思いを馳せたいものである。

(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】山口市白石、平成14年解体、参考「建築文化51.12号~山口市立白石小學校」(彰国社)

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