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山口近代建築ノート第75回「旧下関市庁舎」~進む都市改造とモダニズム

▲東側外観。北側RC造8階建て本館棟、南側3階建議会棟の組み合わせ。素朴で機能的な美しさを持つモダニズム建築 (2012年10月撮影)

〔上右〕階段室棟の目立つ北側外観。8階は元食堂と消防用望楼(田中絹代ぶんか館より写す)
〔上左〕議会棟吹き抜けの玄関ホール。階段が象徴的に配され、床の六角模様が印象的
〔下右〕昭和29年竣工の徳山市庁舎 (「目でみる徳山の歴史」P.114、山口県立図書館蔵)
〔下左〕昭和33年竣工の宇部市庁舎 (「ふるさとの想い出写真集・宇部」P.100、同)

2023年8月20日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第75回「旧下関市庁舎」が掲載されました。

下関市庁舎の設計は、昭和25年に全国コンペが実施され、応募作品144点の中から選定されたものでした。1等となったのは、田中誠ら前川国男建築設計事務所の案。
しかし、第一期「本館棟」の着工は昭和28年。
その美しいモダニズム建築が姿を現すのは昭和30年と、大幅に遅れました。
実施に当たっては予算不足のほか戦災復興土地区画整理事業に伴う用地取得、造成などの問題が大きかったのです。
同じ戦災都市の徳山や宇部も、徳山市庁舎(佐藤武夫設計)は昭和29年に、また宇部市庁舎は33年に、区画整理の中心部で竣工します。
いずれも、RC造で不燃化を果たしたモダニズム建築だったのです。

以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(画像がクリアに大きく見えます。画像・文とも無断転用不可。)

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戦災で甚大な被害を受けた都市の復興は、「戦災復興土地区画整理事業」から始まった。
街路や公園と一体的、計画的に整備された宅地の上に、RC造など不燃の建築物が再建されていった。

空襲で焼失する前の下関市庁舎は、明治41年建設の木造2階建て洋風建築であった。
昭和25年、市は新庁舎位置を城山北端から中央部とし、設計者選定を、岸田日出刀(東大教授)を審査委員長とする「懸賞設計」によることとした。
応募作品144点の中から1等となったのは、田中誠ら前川国男建築設計事務所の案。
だが、実施に当たっては予算不足や用地造成などの問題により、第一期「本館棟」の着工は昭和28年、竣工は昭和30年と、大幅に遅れた。
更に第二期「議会棟」の竣工は、15年後の昭和45年。
案決定から完成まで何と20年もかかったのだ。

高層棟と低層棟2つのブロックがL字型に組まれた外観。
本館棟腰壁部のホローブリックの赤レンガ色水平帯がアクセントになっているが、東西面の大壁、南北面の連続する柱と壁梁とサッシ、議会棟の縦ルーバーなど、全体的には装飾を排除した直線的構成を見せる。
正に機能性を重視したモダニズムの流れを汲むものと言えよう。

同じ戦災都市の徳山や宇部も、徳山市庁舎(佐藤武夫設計)は昭和29年に、また宇部市庁舎は33年に、区画整理の中心部に姿を現す。
いずれも、RC造で不燃化を果たしたモダニズム建築であった。

これらの庁舎は、近年すべて建替えられた。
規模の問題だけでなく、防災拠点化、ユニバーサルデザイン化、高度情報化など、旧庁舎では時代に対応しきれなくなったのだ。
残念だが、数十年間よく頑張ってくれたと慰労すべきなのだろう。
そして、戦災からの復興と都市の不燃化に対する技術者たちの不断の努力と工夫の上に今の建築と都市が造られていることを、私たちは記憶しておかねばならない。

(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】下関市南部町1−1、平成30年解体、参考「新建築1995年5月号」(新建築社)

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