• 私たちは、近代建築をテーマに、建築文化や景観まちづくりに関する研究を行っているグループです。

山口近代建築ノート第74回「山口市営湯田アパート(公営住宅50B型)」~復興期 新公営住宅の登場

▲南東側外観。団地内2棟のうち、これは昭和28年建設3階建て18戸の南入り住棟。屋上階は洗濯物干し場に使われた。(2012年9月撮影)
〔上右〕「50B-S」型の記載がある湯田アパート平面図。DKはなく、「食寝分離」していない
〔下右〕「51C-S」型標準プラン。この2DKプランが、その後全国に広がっていく(学会資料等を加工)
〔上左〕団地遠望。左棟が南入り(S)、右棟は北入り(N)で、中央広場が住民交流の場となっていた
〔下左〕宇部市営見初団地の住棟。同じ「50B型」で水平のボーダーを持つ(2012年9月撮影、現存せず)

 

2023年8月20日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第74回「山口市営湯田アパート(公営住宅50B型)」が掲載されました。

今回取り上げたのは、公営住宅です。
住宅不足は戦争直後は420万戸と推計されていました。
当初の応急的対策から恒久的住宅対策の切り札となったのが、「公営住宅」。
国庫補助を受けて県や市が建設し賃貸する集合住宅です。
当時、多くの研究者や建築技術者が、コンパクトで建設費を抑えたRC造の標準設計開発に取り組んでいましたが、この「湯田アパート」は、その試行錯誤の過程で生まれた住棟モデルです。

かつて市で見せていただいた図面には「公営50B型」との記載がありました。
国は、昭和26(1951)年公営住宅法の制定を機に、2DKプランの「公営51C型」を標準モデルとして普及させていきますが、この湯田アパートのプランは一年前のもの。

50Bと51Cの違いは、どこにあるのでしょうか?
また、この50Bの魅力とは…?

以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(画像がクリアに大きく見えます。画像・文とも無断転用不可。)

—————————————————————————————————————-

終戦後、国内での戦災都市は120にものぼった。
都市復興での住まい確保、さらに疎開先や外地からの引き揚げなどもあり、住宅不足は当時420万戸と推計された。
当初の応急的対策から恒久的住宅対策の切り札となったのが、「公営住宅」だ。
国庫補助を受けて県や市が建設し賃貸する集合住宅である。

当時、多くの研究者や建築技術者が、コンパクトで建設費を抑えたRC造の標準設計開発に取り組んでいたが、この「湯田アパート」は、その試行錯誤の過程で生まれた住棟モデルだ。
団地内は、昭和26年建設の3階建て壁式RC造の南棟と、同規模で28年建設の北棟の2棟。
平面は、階段室が北にあるタイプ(N)と南にあるタイプ(S)で異なるが、6畳、4畳半、2畳の3つの和室と台所、便所、洗面所の構成は同じ。
当時の集合住宅には風呂はなく、周辺の共同浴場を使っていた。

図面には「公営50B型」との記載がある。
国は、昭和26(1951)年公営住宅法の制定を機に、2DKプランの「公営51C型」を標準モデルとして普及させていく。
50Bと51Cの違いは、DK(ダイニングキッチン)があるかどうか。
台所を広めに取り食事室と兼用するDKは、西山卯三(京都大学教授)の住まいの「食寝分離」の提唱に基づき、鈴木成文(東京大学教授)らがこの51Cで実現したものだ。
以後、DK型の間取りはマンション、戸建て住宅などにも採用され、全国に広く普及していった。

この50B型、プランは旧式だが、外観は実に印象深い。
単調な窓と壁で構成される51C型と違い、連続する窓枠の上下に水平に伸びるボーダーにより、立面がきりっと引き締められている。

県内には、下関市営宮田アパートや宇部市営見初団地に、この50B型住棟が見られたが、残念ながら今は無い。
多くの人が快適に住まうことが求められる公営住宅は、築数十年も経過すれば、躯体の劣化や設備水準の低下などで解体を余儀なくされる厳しい現実があるのだ。

(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】山口市元町3-7、平成24年解体、参考「新建築~現代建築の軌跡」(平成7年)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です