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山口近代建築ノート第73回「岩国市立御庄中学校校舎」~新制中学校 復興シンボルに

南側外観。木造二階建て、切妻屋根。連続窓と木枠はグラフィカルな構成。玄関車寄せ部分を突き出してシンボル的に見せるのは戦前からの手法
〔上右〕位置図。駒形切妻屋根を持つ三校は、近隣に建つ。設計、施工情報は互いに共有しあったのだろう
〔上左〕南東側外観。屋根が切妻なのがわかる。南側ファサードは、グラフィカルな印象
〔下右〕「日本建築規格」の二階建て校舎教室・廊下の断面詳細図(「日本の学校建築」p.896、山口県立山口図書館蔵)
〔下中〕御庄中学校玄関車寄せの正面外観
〔下左〕柱野中学校玄関車寄せの正面外観。駒形切妻屋根の破風板は、こちらの方がやや太い

2023年7月23日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第73回「岩国市立御庄中学校校舎」が掲載されました。
今回から戦後編です。
戦後の建築も「近代建築」の流れを受け継ぎ、変化発展していきます。
「現代建築への系譜」を探りつつ、もうしばらく県内の建築史を考察していこうと思います。

昭和20(1945)年8月15日、日本は無条件降伏し、終戦。
翌年には新憲法が発布され、民主主義国家として歩み始めます。
敗戦後の混乱、生活の窮乏、資材不足が続く中、学校は住まいと共に早くから全国で整備が進められました。

今回は、この新制中学校に焦点を当ててみました。

以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(画像がクリアに大きく見えます。画像・文とも無断転用不可。)


今回から戦後編である。
戦後の建築も「近代建築」の流れを受け継ぎ、変化発展していく。
「現代建築への系譜」を探りつつ、もうしばらく県内の建築史を考察していきたい。

昭和20(1945)年8月15日、日本は無条件降伏し、敗戦。
翌年には新憲法が発布され、民主主義国家として歩み始める。
戦後の混乱、生活の窮乏、資材不足が続く中、学校は住まいと共に早くから全国で整備が進められた。

22年には学校教育法の施行により、新制中学も義務化されたが、課題は校舎の不足であった。
新時代の教育に対応し、乏しい資材を効率的に使うため、文部省は「日本建築規準木造中学校」を24年全国に通達する。
この規準や標準設計を拠り所に、地方の建築技術者、大工らが地域的課題に対処しながら、次々と新校舎を建設していった。

その新制中学の一つ、「御庄村立御庄中学校」の開校は、昭和22年。
御庄小学校校舎への間借りを経て、この新校舎は昭和24(1949)年2月に建設された。
外観は、木造二階建て、L型プランに切妻屋根が乗る。
外壁下見板張りで、連続窓や木枠による幾何学的な立面は、戦前の学校スタイルと変わらない。
特徴的なのは、正面玄関車寄せ上部、独特な形の「駒形切妻屋根」だ。
この形の屋根の木造校舎は、同時期に建てられた周辺の藤河中学校(23年)、柱野中学校(26年)と類似している。
近隣同士で新時代の学校の情報交換しながら、手探りで建設していった姿が目に浮かぶ。

復興のシンボルだった新制中学校は、その後RCで建替えられたり、人口減による廃校後、解体や転用されたりしていった。
だが、この校舎は廃校後も残され、未だに見る者を引き付ける魅力を持っている。
廃校が、道の駅や交流センターに変貌を遂げた例を見つけた。
この校舎の再生も、行政と住民の発想力にかかっている。

(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】岩国市御庄2027−2、参考「日本の学校建築」(菅野誠、昭和58年)、「想い出の木造校舎」(川口健治ほか、平成20年)

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