• 私たちは、近代建築をテーマに、建築文化や景観まちづくりに関する研究を行っているグループです。

やまぐち近代建築ノート連載 第71回旧三田尻塩務局小松志佐出張所~塩田の町 繁栄の歴史物語る

▲西側外観。正面が事務所棟、右側は検査棟でL型プランをなす。それぞれ木造平屋建て、寄棟屋根、外壁下見板張り。検査棟のアーケードにはアーチが見られる
〈上右〉位置図。出張所は塩田の西端に立地
〈上中〉配置図。庁舎の東に附属便所と塩倉、南に附属倉庫が建つ
〈上左〉北東外観。貯蔵施設の塩倉はレンガ造り
〈下右〉右図「6等庁舎標準図」(参考より転写)と左図「小松志佐庁舎平面図」(末益卓也氏作成)を比較
〈下左〉「長府出張所」は「7等庁舎」であった。現在は改修され、宇部西町公民館として活用されている

このシリーズもいよいよ「昭和戦後編」に移りますが、その前にこれまで取材から漏れていた2件を取り上げます。
今回は、周防大島町の旧大島町小松にある「旧三田尻塩務局小松志佐出張所」です。

明治39年、国は全国7か所の塩務局庁舎と48ヶ所の出張所を建設するのですが、県内では、三田尻塩務局と5箇所の出張所が竣工しています。これらのうち、この出張所は「長府出張所」(第13回)に続くものです。
設計した大蔵省臨時建築部は、規模によって各庁舎を1から11等級に格付けし、その等級ごと標準平面図や立面図、共通仕様を提示する「標準設計方式」を取りました。
小松志佐は「6等庁舎」で、その標準平面図と現平面図を比較すると、規模や部屋構成はほぼ似ているものの、検査棟が事務所棟より突き出した形となっています。
玄関や検査室前に広場を設けたためと思われます。
また、工事請負人は地元屋代村の吉元常治郎。
このように、実施の段階では、地方の事情を考慮し、柔軟に対応していたことを伺わせて興味を引きます。

築117年だけあって、老朽化が進み、あちこち傷んではいるものの、下見板張りの外壁、屋根形状、細部装飾などは当初のまま。
しかも、ここでは当初計画された庁舎棟、倉庫棟、塩倉棟、便所棟4棟全てが残り、しかも隣には塩竃神社もあるのです。
塩田の町としての歴史と明治の庁舎の姿形を伝える全国でも数少ないエリアと言えるでしょう。

何とか残す手立てはないものでしょうか?

 

以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(画像がクリアに大きく見えます。画像・文とも無断転用不可。)


このシリーズもいよいよ「昭和戦後編」に移るが、その前にこれまで取材から漏れていた2件を取り上げたい。

明治38年(1905年)、大蔵省は「塩専売法」を施行し、翌39年、塩の収納や販売などを行うため、全国7か所の塩務局庁舎と48ヶ所の出張所を建設する。
県内では、三田尻塩務局と5箇所の出張所が竣工した。
これらのうち、「長府出張所」(第13回)に続き、周防大島町の「小松志佐出張所」を紹介しよう。

小松塩田は、元禄期に毛利家家臣粟屋帯刀により開かれ、古くから製塩業の拠点として知られた。
この出張所は、その塩田の西端、塩竃神社に隣接する志佐に定められた。
敷地内には今も庁舎のほか附属便所、倉庫、塩倉の全4棟が現存する。
築117年だけあって、老朽化が進み、あちこち傷んではいるものの、下見板張りの外壁、屋根形状、細部装飾などは当初のままである。

設計は「大蔵省臨時建築部」。
全国各地の庁舎建設を迅速に進めるため、規模によって各庁舎を1から11等級に格付けし、その等級ごと標準平面図や立面図、共通仕様を提示する「標準設計方式」を取った。
小松志佐は「6等庁舎」で、その標準平面図と現平面図を比較すると、規模や部屋構成はほぼ似ているものの、検査棟が事務所棟より突き出した形だ。
玄関や検査室前に広場を設けたためだろう。
また、工事請負人は地元屋代村の吉元常治郎だった。
このように、実施の段階では、地方の事情を考慮し、柔軟に対応していたことを伺わせる。

この庁舎は、昭和15年以降、煙草販売所などとなり、庁舎廃止後は、大島町考古館としても活用されたが、現在は空家のままだ。
塩務局庁舎は、製塩業の衰退と共にほとんどが姿を消した。
だが、ここでは当初計画された4棟全てが残り、しかも隣には塩竃神社もある。
塩田の町としての歴史と明治の庁舎の姿形を伝える全国でも数少ないエリアと言って良い。
何とか、復元し活用してほしいものだ。

(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】大島郡周防大島町小松開作1、参考「大蔵省臨時建築部年報1(明治38・39・40年版)」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です