2023年5月28日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第69回記事「大津島回天訓練基地跡」が掲載されました。
今回は、5月の連休中に訪れた、徳山市街地から南西12km沖に浮かぶ大津島にある軍事遺跡です。
島の南端にある馬島港西側のエリア一帯は、太平洋戦争末期、戦死を前提とする特攻兵器、人間魚雷「回天」の基地として知られています。
工場で製造された回天は、トロッコに乗せられ、軌道上にある250mのトンネルを抜け、訓練基地プラットフォームまで運ばれました。
その横にあるクレーンに吊られ、東側の海上に降ろされたのです。
この軍事遺跡からは、かつて訪れた「知覧特攻平和会館」「ひめゆり平和祈念資料館」と同じ声が聞こえました。
「私たちが命を懸けて守った日本は、今平和ですか。豊かで幸せな国になっていますか。」
以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(画像がクリアに大きく見えます。画像・文とも無断転用不可。)
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戦前、海軍燃料廠の置かれた徳山市街地から南西12km沖に浮かぶ大津島。
島南端にある馬島港西側のエリア一帯は、太平洋戦争末期、戦死を前提とする特攻兵器、人間魚雷「回天」の基地として知られる。
そもそもこの地の徳山湾側には、昭和12年頃から「九三式酸素魚雷」の工場や運搬用突堤が、裏の周防灘側には「魚雷発射試験場」が建設されていた。
その後昭和19年、この魚雷を人が乗り込み操縦できるよう改造し、敵艦に体当たりする「回天」が開発される。
この地は、その製造と訓練の最前線基地へと転用されていったのだ。
当時の基地配置図を見ると、敷地中央に工場群、その周囲に士官や工員の宿舎が数多く並び、訓練基地は発射試験場を再活用したことがわかる。
工場で製造された回天は、トロッコに乗せられ、軌道上にある250mのトンネルを抜け、訓練基地プラットフォームまで運ばれた。
その横にあるクレーンに吊られ、東側の海上に降ろされる。
隊員の乗り降りはそばの低い突堤から行われた。
地形を生かした非常に機能的な計画だ。
訓練基地の下部は、昭和14年に建設された大小13個からなるコンクリート製水中構造物のケーソン。
昭和19(1944)年、回天隊員訓練用に建てられたのが上部構造の2階建て上屋だ。
現在、平屋部金属板屋根や建具、クレーンは無くなっているが、残された柱、梁、階段を見ると、訓練に励む隊員たちの姿と動きが空虚な空間に浮かんでくる。
あの原爆ドームは、もとは近代建築の広島県物産陳列館だった。
今や世界平和、核廃絶のシンボルで世界遺産となっている。
廃墟となっても、遺産には過去との対話ができる力があるのだ。
この回天の軍事遺跡も、今なお問いかけてくる。
「私たちが命を懸けて守った日本は、今平和ですか。豊かで幸せな国になっていますか。」と…。
(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)
【メモ】周南市大津島、土木学会選奨土木遺産、参考「回天記念館と人間魚雷回天」(周南市、平成31年)