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やまぐち近代建築ノート連載 第68回旧宇部窒素工業事務所~村野の第三作 戦時下の苦闘

宇部窒素工業
▲現・宇部興産宇部ケミカル工場本事務所。タイルの赤褐色と短柱・ルーバーのベージュ色、大壁とシャープな水平庇が織りなすコントラストは、優美な印象だ。
〈上右〉内部玄関ホール吹抜け。屋根部分は木造の梁や垂木で支えられる。間にトップライトがある
〈上中〉モダンな形の階段の親柱と手すり
〈上左〉村野建築の一つ大庄村役場(1937年建設、尼崎市)も、湾曲した壁を持ち、同じ色合いをなす
〈下右〉当該事務所の模型(京都工芸繊維大学松隈研究室製作、平成29年開催の模型展にて撮影)
〈下左〉実現されなかった「宇部油化工業硫安倉庫」の復元模型(同)

 

2023年5月14日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第68回記事「旧宇部窒素工業事務所」が掲載されました。
今回は、村野藤吾設計の第三弾、「旧宇部窒素工業事務所」です。
竣工は昭和17(1942)年。
この頃、村野は宇部の図書館やゴルフのクラブハウスなどの設計も手掛けていましたが、いずれも実現していません。
一方、この宇部窒素工業は宇部炭を原料に硫安を製造する石炭化学会社です。
この事務所が戦時下においても建設されたのは、主に農業用窒素肥料に使われる硫安の製造が、石炭や鉄鋼と並ぶ重要産業だったからだと思われます。

さて、この建物を観察して、この時代ならではの、村野が苦労し、工夫した跡が伺えました。
それは、一体…?

以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(画像がクリアに大きく見えます。画像・文とも無断転用不可。)

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建築家・村野藤吾(1891~1984)が宇部に残した建築の三作目は、「宇部窒素工業事務所」であった。
竣工は昭和17(1942)年。
この頃、村野は宇部の図書館やゴルフのクラブハウスなどの設計も手掛けたが、いずれも実現していない。
一方、宇部窒素工業は宇部炭を原料に硫安を製造する石炭化学会社。
この事務所が戦時下においても建設されたのは、主に農業用窒素肥料に使われる硫安の製造が、石炭や鉄鋼と並ぶ重要産業だったからだろう。

全体は、北側一部を除き、赤褐色のタイル張り外壁で、矩形の窓が整然と並ぶ。
西側外壁は緩やかな曲面を見せ、宇部市民館を意識した造型のようでもあるが、壁の湾曲の原因は、東と南に既存の建物、更に西にはカーブした引き込み線という変則的な敷地形状による。
他に特徴的なのは、車寄せの薄い水平庇角部の太い短柱と、後方二階バルコニーに建つ細長い断面を持つ5本のルーバー。
これらは、ベージュ色の人造石が吹付けられ、タイル状の目地が切られている。

中に入ると、玄関ホールは二層分の吹抜け。
上部陸屋根にはめ込まれたトップライトからの光が優しく差し込む。
モダンな折返し階段で1、階と2階、また南側の既存の試験室とつながっている。
北側が事務室。
執務する部屋は静かで落ち着いた空間だ。

一見全体がRC造のように見えるが、残された構造図をみると、基礎・柱・外壁と、庇などの外部床のみがRC造で、壁の一部はレンガが積まれ、屋根や内部床の大部分は木造であった。
厳しい資材統制の中でも、村野はこうした混構造や材料の工夫により、合理的かつヒューマンな空間づくりに腐心したのである。

戦時下の苦闘を切り抜け、今なお事務所として使われ続けてきた歴史。
そして築80年を超えても変わらぬ斬新で優美な造型。
奥深い魅力を感じさせる村野建築である。

(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】宇部市大字小串1978-10、参考「村野藤吾建築案内」村野藤吾研究会、平成21年

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