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やまぐち近代建築ノート連載 第56回旧吉川家岩国事務所~和風モダニズムへの芽生え

▲西側外観。木造一部二階建て、寄棟瓦葺き、漆喰塗り真壁、腰壁に簓子下見板張り。欄間・中蓮にガラス窓を持つ近代和風建築である
〔上右〕北西側外観。直線で構成される姿は、もと武家、華族らしいきりっとした印象だ
〔上左〕南西側外観。手前一間半は昭和12年増築された事務所部分。右側は倉庫棟と便所棟
〔下右〕事務室内部。格子で構成されるモダニズムを意識した空間構成をなす(画像:福田東亜氏)
〔下左〕堀口の初期作品「小出邸」(大正14年、東京たてもの園に移築復元)は、オランダ・アムステルダム派の影響を受けた和洋折衷の住宅

2022年10月23日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第56回記事「旧吉川家岩国事務所」が掲載されました。
岩国市横山、吉香公園の東には、吉川家関連の歴史的建造物が数多く残されています。
吉川家本館(明治25年)の西側、昭和6(1931)年に建設されたこの「旧吉川家岩国事務所」もその一つです。
設計者は、何とあの「堀口捨巳」(1895~1984年)。
東京帝国大学工学部建築学科卒業後、同期の山田守らと分離派建築会を設立。
当初は表現派など欧州の最新の建築運動に影響を受けましたが、後に日本の伝統美、中でも数寄屋に注目し、一連の作品で和風とモダニズムの理念との統合を図ったことで知られています。
主な作品に、明治大学校舎群のほか、名古屋八勝館(1950、重要文化財)など。
では、なぜ著名な建築家の堀口がこの岩国で設計をするようになったのでしょう?

以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(画像がクリアに大きく見えます。画像・文とも無断転用不可。)

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岩国市横山、吉香公園の東には、吉川家関連の歴史的建造物が数多く残されている。
吉川家本館(明治25年)の西側、昭和6(1931)年に建設されたこの「旧吉川家岩国事務所」もその一つだ。
土地や小作の管理などを行い、本館とは渡り廊下で繋がれていた。

外観は、伝統的和風ながら、どことなくモダンな印象を与えている。
それは外壁面の多くを占めるガラス窓のほか、反りや起りを持たない寄棟屋根、漆喰の白色と部材の黒褐色のコントラスト、縦横のグリッドを意識した壁面の構成など複合的要素によるものであろう。
平面は、二階建て北棟と、平屋建て西棟がL字型に配され、角部に家人用と事務員用二か所の玄関がある。
事務室内は板張りで、ガラスの大きな開口が室内を明るく照らす。柱と梁、建具の桟、天井は格子の形態。セセッションなどの意匠は全く見られず、機能優先の合理的空間だ。

設計者は堀口捨巳。
東京帝大の同期生らと「分離派建築会」を立ち上げ、建築を工学よりも芸術、「個の発現」として捉える活動を行った。
当初は表現派など欧州の最新の建築運動に影響を受けたが、堀口は後に日本の伝統美、中でも数寄屋に注目し、一連の作品で和風とモダニズムの理念との統合を図ったことで知られる。

なぜ堀口がこの建物に関わったのか。
それは、彼が当主の吉川元光と岡山の第六高等学校で同級生だったからだ。
他にも吉川邸(5年、東京品川区)や別荘の聴禽寮(12年、山梨県)を設計している。
この建物は、昭和25年岩国市に譲渡され、後「岩国市青年の家」として使用された。
平成24年には市指定有形文化財となり、現在は隣接する岩国徴古館の分館となっている。
本館は、戦後後楽園に移築され、この地には無い。
堀口と吉川の友情の証しを示すこの建物が、吉川家近代の記憶を一身に背負っているようだ。

(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】岩国市横山2丁目7番23号、参考「山口県の近代和風建築~旧吉川家関連建物」(福田東亜・瀬口哲義)

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