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やまぐち近代建築ノート連載 第 46 回防長先賢堂~求められた深謝と忠節の表現

▲南西側外観。昭和3(1928)年建設。RC造平屋建て、瓦葺き、高床式校倉造りの外観。校木、斗栱、蟇股、懸魚など伝統的木造の意匠が緻密に表現されている。
[右]昭和初期の春日山教育文化ゾーン。着色部分が、行啓記念整備エリア(山口県文書館蔵「行啓記念事業一件(春日山及図書館築庭)」を参考に図作成)
[左上]平面図:前室、講堂、控室で構成/断面図:外壁・柱・壁梁はRC造、屋根大梁・小梁・垂木・斗栱等は木造か。(出典「山口県の近代和風建築」P.103)
[左下]明治神宮宝物殿(大正10年、大江新太郎設計、国重文)もRC造で、高床式校倉造りの外観。(「明治大正昭和建築写真聚覧」より)

2022年4月10日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第46回記事「防長先賢堂」が掲載されました。
私が勤務していた山口県庁舎や現職場の目と鼻の先にある神社のようなこの施設。
「この建物はどんな役割を持ったものなのか?」とよく聞かれていました。
一般的には、大正15年5月の東宮殿下の行啓を記念したものとされています。
私は、それだけが理由でない、どこか重々しい歴史を背負っているように感じていたのですが、亡き父の書棚にあった「山口県教育会誌」をたまたまめくっていて、大正12年12月の「大不敬事件」=「虎ノ門事件」が県下に大きな衝撃を与え、以後官民こぞって反省と忠節を誓った…との歴史を知り、この先賢堂創設の主な目的は、これだ!と気づいたのです。

さて、その具体的な目的とは…?

以下、記事全文。(文・画像とも無断転載を禁じます)

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山口県庁の南、都市街路パークロードの西側にある緑豊かな春日山。
かつて社があり、毛利家の所有地であったこの山の中腹に「防長先賢堂」、ふもとに「旧県立山口図書館」が建っている。
両棟は、大正15年5月に東宮殿下(後の昭和天皇)が山口県を行啓されたことを記念した建物だ。
昭和2年12月着工、同3年(1928)12月、同時に竣工。
翌年には、山頂の庭園、周辺の池や散策路も整備され、隣接の教育博物館(大正6年)と共に教育文化の中核ゾーンを形成した。

このうち、先賢堂は小規模ながら、神社のような神聖さと品格ある外観を見せている。
珍しい高床式校倉造りは、聖武天皇の天平時代の様式を意識したものだ。
しかも、主要部は木造でなく、鉄筋コンクリート造。同種の近代和風建築に「明治神宮宝物殿」があげられる。
では、どんな役割を担っていたのか。
創設にあたっての大森吉五郎知事の「祭文」には、「…防長先賢の霊を鎮め…忠君愛國の精神を振起せしむる標的と為す…」とある。
精神教育の場としてだけではない、「霊を鎮める」意味とは何なのか…。
歴史を紐解くと、「虎ノ門事件」に行き当たる。
それは、大正12年12月、周防村出身の難波大助が、衆議院議員の父難波作之進愛蔵の仕込み銃で東宮殿下を狙撃した事件。
殿下は無事であったが、時の山本権兵衛内閣は倒れ、作之進は議員を辞職、大助の死刑の半年後死亡した。
大不敬事件を起こした不埒な人物を、防長の地から出したことに、先賢の霊は怒っている…。
そんな県民の重苦しい心を救ったのは、殿下のこの行啓だった。
事件への反省、皇室への深謝と忠節、それらを県民が誓うことによってその霊を鎮める…。
前例のない条件を、皇室につながる表現で建設したのがこの先賢堂なのだ。

建物の存在理由は、戦後大きく変わり、今は訪れる人もまばらだ。
だが、建物は今なお格調さを保ち、内部空間は生き続けている。
今後春日山文化ゾーンの再整備が必要だ。
先賢堂も、その中で新たな活用が図られるのを待っている。

【メモ】山口市春日町、参考「山口県教育通巻341号/昭和4年」「山口県教育会誌/平成11年」

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