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やまぐち近代建築ノート連載 第44回日本ハワイ移民資料館(旧福元長右衛門邸)~移民の苦闘と開拓精神伝える

▲南側外観。木造二階建て、入母屋屋根。令和3年、この主屋のほか、土蔵、石塀及び鉱滓煉瓦塀、井戸及び給水塔が国登録有形文化財となった
[上左]北東外観。格子戸部分は家人用東玄関。左側に見えるのは、御影石製の井戸及び貯水槽
[上左]平面図。畳間が中心だが、1階食堂・炊事場・応接室、2階寝室は板間(赤色部分)
[下右]中庭の周囲は、ぐるりと硝子建具で囲まれる
[下中]美しいタイル張りの風呂。釜は鉄製の五右衛門風呂。長州風呂とも呼ばれる
[下左]応接室天井の意匠は井桁の組合せ。ペンダントライトもレトロだ

2022年3月6日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第44回記事「日本ハワイ移民資料館(旧福元長右衛門邸)」が掲載されました。
古事記や日本書紀の国造り神話にも登場する屋代島。
ここは昔から出稼ぎの多い島でした。農業だけでなく、長州大工と言われる集団が、対岸の伊予や土佐まで神社仏閣を施工していたことはよく知られています。
近代では、明治18年のハワイ王国との「官約移民」を切っ掛けに、この島から海外へ移住する人間は増大し、昭和初期にはアメリカでの大島郡人在住者数は、本土約1400人、ハワイ約3000人にも達しています。

島内屋代村出身の福元長右衛門(1881~1970年)は、16歳でアメリカのカリフォルニア州に渡りました。
夜学に通いながら、苦労の末貿易事業で成功を収めたが、家督を継ぐこととなり44歳で帰国。
翌年の大正15(1926)年、自邸として建てたのがこの建物なのです。

さて、その後のこの建物の運命は…?

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古くから瀬戸内海海上交通の要衝として栄えた周防大島(屋代島)。
だが、肥沃な平地が少なく、伝統的に農工の出稼ぎが盛んな地であった。
明治18年のハワイ王国との「官約移民」を切っ掛けに、この島から海外へ移住する人間は増大し、昭和初期にはアメリカでの大島郡人在住者数は、本土約1400人、ハワイ約3000人にも達した。

島内屋代村出身の福元長右衛門(1881~1970年)は、16歳でアメリカのカリフォルニア州に渡った。
夜学に通いながら、苦労の末貿易事業で成功を収めたが、家督を継ぐこととなり44歳で帰国。
翌年の大正15(1926)年、自邸として建てたのがこの建物だ。

平面は中庭を囲んだJ型。
南棟平屋建て部分は接客空間で、書院形式の和室が並ぶ。
東棟は二階建てで、一階玄関横に応接室、中央に炊事場・食堂を配し、二階は寝室。
応接室天井や階段手摺に洋風意匠が確認できる。

住まいの特徴としては、次の三点があげられよう。
まず、東棟の多くの部屋は床が板張り、特に二階の各寝室は個室で、洋式の生活スタイルとなっていること。
次に長い廊下を中心に硝子建具が多用されていること。
二階寝室には、磨り硝子も使われている。
更に、炊事場にあるアメリカから持ち帰ったオーブン等の設備、洗面器や水栓金具の衛生設備、屋外にある井戸上部の貯水槽など、住宅設備の洋風化、合理化が見られることである。
内外装とも伝統的民家の印象が強いものの、和洋折衷の生活スタイルが伺える貴重な建物と言えるだろう。

長右衛門は、帰国後村議や屋代村信用組合総代などを務め、昭和45年に亡くなる。
25年後、この家は遺族により町に寄付され、「日本ハワイ移民資料館」として再生された。
現在、ハワイ、アメリカへの移民の歴史や交流などを示す資料が所狭しと展示されている。
この施設は、移民たちの生活体験を記憶した空間であり、大島とアメリカとの懸け橋ともなっているのである。

【メモ】周防大島町大字西屋代字下里2144番地、参考「山口縣史下巻(昭和9年)」「山口県の近代和風建築~旧福元家住宅」中川明子

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