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やまぐち近代建築ノート連載 第43回周南市市長公舎(旧海軍燃料廠廠長官舎)~歴史語り継ぐ和洋並列の館

周南市長公舎

▲洋館正面。木造平屋建て、切妻屋根にフランス瓦。軒下妻壁部分はハーフティンバー、外壁はタイル張りだが、腰部で色を変え、全体として色鮮やかな印象だ。
[上左]平面図。公邸洋館、公邸和館、私邸の面積比率は、およそ1:2:2。接客に重きを置いたプランと言える。各部屋は南向きで和風庭園に面する。
[上右]北側外観。左側は公邸和館の玄関回り。外壁は漆喰と板張りである。右側洋館と廊下で繋がる。
[下左]洋館内部。特に折上天井の格子は繊細で美しい。
[下右]旧呉鎮守府司令長官官舎(現呉市入船山記念館、明治39年、設計桜井小太郎、国重文)も海軍の「和洋館並列型住宅」。海外からの賓客も想定し、洋館部の規模が大きい。

2022年2月27日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第43回記事「周南市市長公舎(旧海軍燃料廠廠長官舎)」が掲載されました。
徳山と言えば、海岸沿いに林立する石油コンビナート工場群が有名ですが、戦前、実はこのエリアは海軍燃料廠の施設が建ち並んでいました。
この建物は、その燃料廠長用の官舎です。
太平洋戦争終盤、徳山は昭和20年5月にこの海軍燃料廠を、また7月には市全域を狙った二度の空襲に見舞われ、市街地約90%が焼失しました。
死者は千人近くにも達し、当時の羽生市長も死亡…。
そんな悲惨な戦災を受けつつも、この建物が無傷で残ったのは正に奇跡と言ってよいでしょう。

さて、その後のこの建物の運命は…?

以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(画像がクリアに大きく見えます。)

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明治38年、徳山に海軍の練炭製造所が設立された。
この地が選定されたのは、天然の良港を持ち、呉や佐世保の軍港に近く、更に艦船の燃料となる練炭が大嶺炭田から鉄道輸送により調達できたからだ。
燃料の主体が重油精製に移ると、大正10年には新たに海軍燃料廠が設置された。
これは、現在海岸沿いに林立する石油コンビナート工場群に位置する。

この建物は、その燃料廠長用の官舎である。
燃料施設群からは1km北側に位置し、大正15年(1926年)に竣工した。
平面を見ると、大きく3つの部分で構成され、東西に長い。
最初に姿を現す「公邸洋館」の内部は西玄関と応接室で、折上天井、腰壁、建具に格子を組合わせた洋風意匠が施される。
その奥「公邸和館」は、別の北玄関を持ち、床の間や違い棚を持つ和室が客座敷として連なる。
更に奥は「私邸」だ。
この頃の政府高官用官舎の典型的な造り、「和洋館並列型住宅」である。
このスタイルは、政府高官だけでなく、各府県知事や総務部長などの地方高官用官舎にも広く普及した。

太平洋戦争終盤、徳山は昭和20年5月にこの海軍燃料廠を、また7月には市全域を狙った二度の空襲に見舞われた。
市街地約90%が焼失、死者は千人近くにも達し、当時の羽生市長も死亡。
そんな悲惨な戦災を受けつつも、この建物が無傷で残ったのは正に奇跡と言ってよい。

戦後の一時期GHQの接収があり、その後は市が国から払下げを受け、市長公舎として使用されてきた。
現在は住情報発信の場として公邸部が公開されてはいるが、建物が持つ歴史的、文化的価値をもっと掘り下げてみてはどうだろう。
例えば、洋館部を古カフェ等の談話ゾーン、和館部を学習・展示ゾーンとし、戦前から変わらない環境の中で、市民が町の歴史を学ぶ拠点とする案。
誇るべき戦災復興計画に焦点を当てても良い。
徳山の町を百年見守り続けたこの館は、「歴史の語り部」としての位置づけをすべきであろう。

(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】周南市慶万町3番15号、国登録有形文化財、参考「和洋館並列型住宅の成立と展開に関する研究」(藤木竜也、平成31年)

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