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やまぐち近代建築ノート連載 第41回 旧沖ノ山上水道施設~近代水道にかけた先人の遺産

▲北側外観。旧桃山1号配水池監視廊入口。この背後の地下に1号配水池(水槽)があり、いずれも大正13年の建設。後方の展望塔を持つ3号配水池は、昭和62年建設
〈上右〉取水→濾過・浄水→揚水→配水池→計量室→最終配水、を示す約10kmのルート図(大正14年「沖ノ山水道計画図」を基に作成)
〈上左〉旧桃山1号配水池監視廊入口古写真(大正13年12月/「炭鉱」P.223より転載)
〈下右〉桃山配水計量室。市道のど真ん中に建つ赤煉瓦の建物。左側が車道、右側が歩道
〈下左〉中山浄水場古写真(昭和7年頃/「炭鉱」P.225より転載)。池の右端に写るのがポンプ室

2022年1月23日(日)、ほぼ1か月半ぶり、山口新聞の「地域文化」欄に、第41回記事「沖ノ山上水道施設」が掲載されました。
炭鉱業によって明治末から急速に発展を遂げた宇部村は、大正10(1922)年、人口4万の宇部市となります。
市制施行に伴い、市は生活、衛生上重要な上水設備の整備を急ぎ、技師・米元晋一(明治11年生れ、山口県出身、東京帝大卒)らがまとめた布設計画を進めます。
一方、多数の炭鉱労働者を抱える「沖ノ山炭鉱」は、創業者渡辺祐策の指導の下、先行して整備計画を進めていました。
大正12年、各々の計画の整合を図り、将来市が買収することを条件に、炭鉱側が工事着手したのが「沖ノ山上水道」なのです。

さて、その水道システムの宏大な構想とは…?

以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(画像がクリアに大きく見えます。)

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炭鉱業によって明治末から急速に発展を遂げた宇部村は、大正10(1922)年、人口4万の宇部市となった。
市制施行に伴い、市は生活、、衛生上重要な上水設備の整備を急ぎ、技師・米元晋一(明治11年生れ、山口県出身、東京帝大卒)らがまとめた布設計画を進める。
一方、多数の炭鉱労働者を抱える「沖ノ山炭鉱」は、創業者渡辺祐策の指導の下、先行して整備計画を進めていた。
大正12年、各々の計画の整合を図り、将来市が買収することを条件に、炭鉱側が工事着手したのが「沖ノ山上水道」である。

厚東川取水場から取った原水を中山浄水場に送って浄化した後、高台の桃山配水池にポンプアップ、計量室経由で給水調整を行い、最終端の沖ノ山へ配水する計画。
先行した下関や小郡は全て自然流下だったが、ここでは揚水用ポンプが使われているのが特徴だ。
翌13年の夏に完成し、給水は計画通り開始された。

建設された当初施設のうち、現存建物は3棟である。
「中山浄水場ポンプ室」は、RC造平屋建ての機械室。7角形平面で、梁下には緩やかなアーチが連続している。
「桃山1号配水池監視廊入口」は、地下水槽の状況監視用の施設で、RC造平屋建て、高さは6.4m。
入口正面には尖頭アーチがあり、柱頭部が伸びたままの四隅の柱と梁との交差部には菱形、丸形のセセッションの意匠が施される。高くシンボリックな形態としたのは、背後の巨大な地下水槽の存在を示すためだろう。
ここから下った道の真ん中には、給水量を計測し、調整する「桃山配水計量室」がある。
八角錐屋根、八角形平面を持つ煉瓦造りの建築だ。

10kmに渡る給水ルートの中で、黙々と各々の役割を果たしてきた三棟だが、壮大な上水道システム全体を、貴重な文化遺産として捉えることが大事であろう。
携わった多くの先人達の努力と熱意、知恵と工夫こそ、正に後世に語り継ぐべきものなのである。
(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】宇部市中山吉ヶ迫・小串、監視廊入口と計量室は国登録有形文化財、参考「炭鉱~有限から無限へ」(宇部市、平成10年)

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