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やまぐち近代建築ノート連載 第 39 回 旧逓信省下関電信局電話課庁舎(田中絹代ぶんか館)~新時代を目指す表現の躍動

▲RCと煉瓦の混構造、二階一部三階建ての陸屋根。17本の掘立柱、三階壁のアーチ窓、階段室上部のパラボラアーチなどに、新しい表現への強い志向が伺える。
[上左]最盛期は、北側と川を隔てた西側にも棟が続いていた。三階部分は休憩室、塔屋内部には防火流水装置(ドレンチャー)用の水槽が設置されていた。
[上右]二階電話交換室内部古写真。電話交換業務は多くの女性が担い、「訓育室」「休憩室」も設けられた。(「旧逓信省下関電信局電話課庁舎保存活用整備工事報告書」史料頁より/山口県立図書館蔵)
[下左]改修前の本建物。こんな姿からよく甦ったものである。(平成20年10月筆者撮影)
[下右]旧京都中央電話局西陣分局舎(岩本禄設計、大正元年、国重文)。自由で大胆な表現は共通している

2021年11月28日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第39回記事が掲載されました。
今回は、「旧逓信省下関電信局電話課庁舎」、現「田中絹代ぶんか館」です。
郵便、電信、電話事業を統括していた逓信省は、大正期になると電話需要の急増に伴い、新たに共電式電話交換業務用局舎を全国の主要都市に建設して行きます。
この事業を担当した逓信省営繕課は、日本最初の近代建築運動である「分離派建築会」のメンバーの山田守(1894~1966、東京帝大卒)らを擁していました。
彼らは個人の表現と創作態度を重視し、自由な形や抽象的な立体を持つ「表現派」と言われる新しい造形を目指していたのです。
この局舎は、正にこうした時代の動きの中で生まれたものなのです。

以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(画像がクリアに大きく見えます。)

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下関市役所近くの田中川のそば、西洋の神殿を思わせる「田中絹代ぶんか館」の堂々たる姿が現れる。
楚々とした女優を想うと、外観にはやや違和感を覚えるが、元は「下関電信局電話課局舎」として大正13年(1924)に建設された建物だ。
郵便、電信、電話事業を統括していた逓信省は、大正期になると電話需要の急増に伴い、新たに共電式電話交換業務用局舎を全国の主要都市に建設して行く。
この事業を担当した逓信省営繕課は、日本最初の近代建築運動である「分離派建築会」のメンバーの山田守(1894~1966、東京帝大卒)らを擁していた。
彼らは個人の表現と創作態度を重視し、自由な形や抽象的な立体を持つ「表現派」と言われる新しい造形を目指していたのである。
この局舎は、正にこうした時代の動きの中で生まれたものであり、設計者はその山田守、との説もあった。
根拠の一つが、彼が大正10年に発表した『ある電話局の草案』。
配置、立面が当局舎と酷似していたからだ。
しかし、他に兵庫(11年)や福岡(12年)の局舎も類似していたことが判明。
つまり、当局舎は山田の単独設計でなく、草案を「標準設計」と見なし、各地で活用したものと考えられよう。

昭和20年、下関空襲によりこの周辺一帯はほぼ壊滅したが、この局舎は奇跡的に被災を免れた。
昭和41年、新局舎が別敷地に移り、以後下関市が「第一別館」として使用。
その間老朽化は進み、平成11年、本体解体の案を市議会が可決。
しかし、それでも多くの市民団体が解体撤回の運動を続け、市は一転保存活用を決定した。
平成22年耐震補強と改修工事が施され、現在に至っている。

多くの逓信省局舎が解体されて行く中、この建物は建築史的に希少価値を持つ貴重な文化財となった。
私もかつてこのまちづくりフォーラムにパネリストとして参加。
残され、活用される姿を見て、心から喜んでいる一人である。

(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】下関市田中町5番7号、下関市指定有形文化財、参考「旧逓信省下関電信局電話課庁舎保存活用整備工事報告書」(下関市、平成22年)

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