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やまぐち近代建築ノート連載 第36回 旧滝部小学校本館(下関市立豊北歴史民俗資料館)~田園にルネサンスの学び舎

▲南西外観。屋根は、本館寄棟に正面と東西の切妻がつながり、複雑な形状を見せる。1階三連アーチ、2階イオニア式列柱、三角破風に楕円形の窓、塔屋と賑やかな意匠だ。
〈上右〉建設当初の古写真。(「滝部小学校百年の歩み」口絵より、山口県立山口図書館蔵)
〈下右〉竣工配置図。本館棟1階は事務室と生徒用玄関ホール、2階は講堂(「報告書」より加工)
〈上左〉山口県旧県会議事堂塔屋。四面連続の三角破風、その上のドームとフィニアルの構成は、滝部小本館の塔屋とよく似ている
〈下左〉旧遷喬尋常小学校(岡山県真庭市、明治40年、国重文)は県の技手江川三郎八の設計。二階に講堂があり、「一文字」配置をなす

2021年10月3日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第36回記事が掲載されました。
今回は、下関市豊北町(旧豊浦郡豊北町)に残された「旧滝部小学校本館」です。
大正期の小学校は全国で2万数千校にも達し、校舎の多くは、木造下見板張りの標準化された建物でした。
しかし、この滝部小学校は、農村風景の中、華麗な西洋館の姿で登場します。
豊北の田舎に、突然こんな豪華な学校ができた秘密は、何か?
そして、誰がこのデザインをなしたのか?

以下、本文。


大正期の小学校は全国で2万数千校にも達し、校舎の多くは、木造下見板張りの標準化された建物であった。
しかし、この滝部小学校は、農村風景の中、華麗な西洋館の姿で登場する。
中山太一ら三兄弟が、郷土の子弟のためにと多額の寄付を行い、大正13(1924)年に竣工したものだ。
中山は、開誘小(滝部小の前身)を卒業し、神戸で「中山太陽堂」を創業、後「東洋の化粧王」とまで称せられ、貴族院議員にも選出された実業家である。

新設されたのは、本館棟と東教室棟だ。大正4年建設の西教室棟が残っており、それに増築する形で本館を45度、更に東教室棟を45度降って全景とした。結果として南側の運動場を囲み、「大きな鳥が両翼を広げたような」外観イメージを与えている。
西洋風の意匠は、アーチ、列柱、ドーム、と様々だ。それに水平感のあるシンメトリーな外観を見れば、ルネサンス様式が基調と言えるだろう。
「設計者は中山が依頼したドイツ人技師」と伝わる根拠の一つ。
ただ、氏名は未だ不明で、図面も残されておらず、疑問が残る。
一方、地方の小学校に外国人建築家が関与する例は稀で、県内にも旧県会議事堂など先行するモデルが存在していたこと、細部意匠には簡略化も多々見られることなどから、宮大工、橋本銀之助らによる設計施工ではないか、との想像も膨らむ。
美しい姿を「形」にした地元阿川の大工集団の知恵と技術を、もっと積極的に評価すべきではないか、とも思うのだ。

この建物は、昭和50年代に新校舎移転の話と共に保存運動が起き、文部大臣への陳情書提出を契機に、昭和54年、保存が決まった。
学校から、歴史資料館に用途を替え、平成19~24年には大規模な改修を受け、エレベーターも設置されている。
これは正に「文化財リノベーションの優等生」と言えるだろう。
用途を終え、放置されたままの多くの廃校も、この見事な転身に続いてほしい。

(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】下関市豊北町大字滝部3153-1、県指定文化財、参考「旧滝部小学校本館保存修理報告書」(平成24年、下関市教育委員会刊)

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