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やまぐち近代建築ノート連載 第34回 旧桂ヶ谷貯水池堰堤~史跡公園化で名所復活目指す

▲堰堤とは小規模ダムのこと。高さ約13m、幅約24m、下部は重力式コンクリート造に石張り。上部中央の半円筒型取水塔と、左右市松模様の高欄は煉瓦造り。
〈上右〉堰堤南側古写真古写真。総貯水量約四万立米の水を湛えていた。現在、水は抜かれている。(「小郡名所絵葉書」より/小郡文化資料館蔵)
〈上左〉亡き父の書斎に掲げられていた古写真。堰堤は、かつて小郡小学校の遠足の目的地だった。中央が教育実習生時代の父(昭和24年頃)
〈下右〉羽根越堰堤(宇部市小野)。現在、中央取水塔は解体され、砂防ダムのようになっている
〈下中〉市街地に唯一残る当時の共同水栓
〈下左〉「桂ヶ谷赤レンガ堰堤を活かす会」による市民向け見学会での記念写真(平成31年)

2021年9月5日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第34回記事が掲載されました。
今回は、私の故郷、山口市小郡(旧吉敷郡小郡町)に残された近代上水道施設「桂ヶ谷貯水池堰堤」です。
平成28年に国登録有形文化財となってから、私が登場したNHK山口放送局「お便りさんぽ」や、平成30年のNHK-BS「出張クールジャパン」などで紹介され、この「自然に埋もれた廃墟の美」を見たいと訪れる人が増えてきていました。
2年前、地元の方たちと「桂ヶ谷赤レンガ堰堤を活かす会」を結成し、会では草刈り等の環境整備、施設紹介パンフレット作成配布の他、木道による散策路整備や公園化に関する市への要望活動も行ってきています。

かつて堰堤周辺は、多くの人が訪れる「小郡の名所」でした。
2年後の堰堤建設百周年に向け、市民の憩いの場、子供たちの郷土学習の場として、故郷の「名所復活」となるよう、私自身も活動を続けたいと考えています。

以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(画像がクリアに大きく見えます。)


鉄道の町山口市小郡。明治35年に山陽線の駅が開業し、大正2年には山口線が開業と、次第に交通の要衝となっていく。
駅は水を大量に必要とする機関車の基地であり、人や住宅、店舗を増大させる。水量不足、水質不良を抱える小郡では、生活を支える良質な水の安定的供給が、喫緊の課題となっていた。
大正9(1920)年、町有力者らが「上水道期成同盟会」を結成、町議会がその敷設を決定する。事業の推進に当たっては、別府で「乙原貯水池堰堤」(大正5年、現存)設計の実績を持つ水道技師の石崎貞次郎(明治17年京都生まれ、関西商工学校土木科卒)が招かれた。市街地北にある桂ヶ谷川を主水源とし、この堰堤により溜めた水を、濾過池で上水にし、最長約5Km先の市街地内の水道管により各戸に配水する、という計画は、大正11年に着工、12年に実現した。
その後大正14年、宇部線が連結、更に三田尻機関庫の小郡移設の計画も浮上したことで、町は急遽上水道拡張計画を策定。ここから西側1kmの上流、新たに建設されたのが「羽根越貯水池堰堤」(昭和3年)である。

それから約30年後、別の場所に新たな水源が設けられ、この堰堤もその役割を終えた。放置されたままだったこの地が再び注目されたのは、平成28年。近代上水道施設として、国登録有形文化財となったのだ。これを切っ掛けに、マスコミやSNSで取り上げられ、その「廃墟の美」に触れようと訪れる人が次第に増えてきた。一方、地元では住民や建築士らが「堰堤を活かす会」を結成。会では、草刈り等の環境整備のほか、木道による散策路整備や公園化に関する市への要望活動も行っている。

かつて堰堤周辺は、多くの人が訪れる「小郡の名所」であった。2年後の堰堤建設百周年に向け、市民の憩いの場、子供たちの郷土学習の場として、故郷の「名所復活」となるよう、私自身も活動を続けている。
(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】山口市小郡上郷2915、参考「旧桂ヶ谷貯水池堰堤~小郡の初期上水道事業の中で」(平成29年小郡文化資料資料館刊)

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