2021年8月22日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第33回記事が掲載されました。
今回は、私の母校、県立山口高校内にある「山口高等学校記念館(旧制山口高等学校講堂)」です。
戦後、学校建築は、木造から鉄筋コンクリート造への転換が進み、昭和40年頃本校にも全面建替えの話が持ち上がります。
しかし、この講堂は旧制高校の同窓会から保存を強く望む声が出たと言います。
これに応え、新校舎建設後、講堂は南側に数十メートル曳家による移転、改修を受け、新たなシンボルとしての活用が開始されたのです。
今春、学校創立150周年記念事業の一環で改修に着手したこの記念館。
この秋には、美しくよみがえった姿を見せてくれるでしょう。
以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(全文掲載、画像もクリアに大きく見えます。)
明治5年の学制発布以降、近代教育制度の発展と共に、学校建築も徐々に変遷する。
大正8(1919)年、新高等学校令により新潟、松本、松山と並び、旧制山口高等学校(山口大学文理学部の前身)の設立が決まった。
校舎建設に当たり、国は敷地を旧制山口中学校跡地の山口町糸米に定め、文部省建築課山口出張所を開設する。
設計と工事監理を行ったのは、盛岡高等農林学校(大正元年建設/国重文)などの設計実績を持つ文部技手の谷口鼎(明治15年生、工手学校卒)だった。施工は、当初山口県庁舎を手掛けた大岩組が請け負ったが、第一次大戦後のインフレで工費が急騰し、撤退。結局毛利邸本館を担当した藤井他人らが引き継ぎ、本館は大正9年、講堂は11年に完成する。
校内には、その他特別教室、道場、寄宿舎など、数多くの木造下見板張りの校舎が建ち並んだ。
戦後、学校建築は、木造から鉄筋コンクリート造への転換が進み、昭和40年頃本校にも全面建替えの話が持ち上がる。
しかし、この講堂は旧制高校の同窓会から保存を強く望む声が出たと言う。
これに応え、新校舎建設後、講堂は南側に曳家移転、改修を受け、新たなシンボルとしての活用が開始されたのだ。
講堂内は、演壇を中心に、梁が格子状に組まれた天井、漆喰の白壁、縦長窓で構成され、吹き抜け中央に下がる大正モダンの照明器具が空間を引き締める。
軽やかなセセッションと古典様式を巧みに融合させた風格ある学校建築。権威の中にどこか親密感のある穏やかな印象は、大正期の学校建築共通のものだ。
本校卒業生の私は、正にこの曳家移転時に入学し、工事の光景を覚えている。また、記念館で行われた応援歌の練習や文化祭でのコンサートなどは、懐かしい友人の姿と共に脳裏に焼き付いている。
今春、学校創立150周年記念事業の一環で改修に着手した記念館。秋に再会できるのがとても楽しみだ。
(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)
【メモ】山口市糸米1-9-1、国登録有形文化財、参考「やまぐち建築ノート」(松葉一清/昭和54年刊)