廃藩置県後、大名華族は、東京居住を義務付けられ、毛利元徳は、明治6年高輪邸を建設する。旧藩地に居住を許されたのは明治23年。元徳は「家憲」を定め、山口県下を常住の地とした。防府の多々良を本館建設地としたものの、日清・日露戦争の影響で何度か中断。ようやく大正に入って本格的に着工し、竣工したのは大正5年(1916)であった。
設計は、臨時建築事務所の技師兼工務科長として赴任した原竹三郎。彼は、英雲荘(6年)、寺内文庫(10年)などの建設にも関与している。
本館は、書院を中心とした造りで、全10棟60もの部屋から成る。木曽ヒノキ、屋久杉など高級な材料が使用され、伝統的な意匠に身を包んだ格式の高い木造の近代和風建築である。
では、どこが近代なのか。
まずは、平面に見る合理的な空間分離。西側玄関に対し、南西部が接客用、南東部が居住用、残りが台所、用達所などの家政用空間で、それらは中庭を4つ囲んだ「田の字」の廻廊式廊下で機能的に繋がっている。
次に、平屋建てを基本とする旧大名家邸宅にあって、二階建てとした接客空間。洋間の応接室から吹抜けの階段室を抜け、庭園や市街地が眺望できる書院へと客を導く動線計画は斬新だ。
また、外装には窓ガラス、コンクリートや金属板などの近代建築材料を用い、更にシャンデリアの電灯、大理石浴槽湯栓の蛇口などの近代設備が随所に見られる。発電機、発電室も設けられていたと言う。
東京高輪邸には、私邸としては最古の西洋館もあったと言うが、ここ多々良の地に姿はない。家憲に従い、先に建設された岩国の吉川邸(明治25年)、長府毛利邸(同36年)にも西洋館は建てられなかった。時代は既に欧化主義を脱し、毛利家には、「山口の住まいは、伝統と格を重んじた和風で」との考えが、深く浸透していたのだろう。
(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)
【メモ】防府市多々良、・国指定重要文化財・邸宅と庭園は国指定名勝、設計原竹三郎、施工手塚兼吉ほか、参考「山口県の近代和風建築~毛利邸本館」(福田東亜/山口県2011年刊)