本日6月28日、第6回の近代建築ノートが掲載されました。
対象は、今回建築物ではなく、セメントを製造した煉瓦製の竪窯。
明治の民間初のセメント製造会社は、士族救済(授産)を目的に小野田で設立されました。その裏には、士族出身の笠井順八の獅子奮迅の活躍があったのです。
以下、原稿の抜粋。
建築や土木施設の施工に今や無くてはならないコンクリート。そのコンクリートが、日本で普及するのは、明治以降、近代のセメント技術が導入されてからだ。
明治8(1875)年、官営の「深川セメント製造所」(東京)において、日本で最初のセメントが生産される。それから6年後の明治14年、今度は民間初となるセメント会社、「セメント製造會社」が小野田に誕生した。この竪窯は、設立2年後の明治16年、セメント焼成用に最初に建設された竪窯四基のうちの一つで、しかも一号窯である。首が細く下部が膨らんだ形から、「徳利窯」と呼ばれてきた。窯の中央に位置する装填口から材料を入れ、火入れ後七昼夜焼成して「焼塊」を作る。取り出した後選り分け、良品を粉砕機で粉状にしてようやくセメントとなるのだ。
窮乏する旧士族のため、旧藩の資産や人脈を基に、地の利を生かして新材料を生産する。この笠井の起業家精神は、正にこの竪窯から始まり、世に羽ばたいて行くのである。
<メモ>山陽小野田市大字小野田6276番地/平成12~16年保存修理事業/竪窯は、国指定重要文化財。竪窯周辺は、県指定文化財。/参考「小野田セメント製造株式會社創業五十年史」(昭和六年)/会社は現在「太平洋セメント株式会社」