モダニズム建築の名作「下関市立体育館」が、老朽化、耐震不足を理由に建替え計画が進められています。下関には、ボロボロで放置されたままだった「旧逓信省下関電信局電話課庁舎(一時下関市第一別館として使用)」を「田中絹代ぶんか館」として見事に再生させた実績があるにもかかわらず…です。
本建物も、今一度歴史的文化的価値の面から再考し、「未来に残すべき建築」として蘇らせることはできないか、私たちも市民県民の立場から考えていきたいと思います。
◆ 下関市体育館基本データ
設計 建築 坪井善勝 共同:今泉善一
構造 坪井善勝
設備 日本不燃建築研究所
施工 大成建設
建築面積 4,995㎡
延床面積 6,874㎡
階数 地上5階
構造 鉄筋コンクリート造 鉄骨造
工期 1962年9月~1963年8月
◆ 設計者・坪井善勝氏について
「坪井善勝氏(1907~1990年)は、1929年東京帝国大学工学部建築学科入学。1932年東京帝国大学大学院入学。和歌山県営繕技師、九州帝国大学助教授を経て、1942年東京帝国大学第二工学部建築学科教授。田治見宏、青木繁、若林實、川口衛らを育てる。退官後は日本大学教授。株式会社坪井善勝研究室を設立。斎藤公男、今川憲英、中田捷夫らを育てる。その他清水建設技術顧問、また国際シェル・空間構造学会会長も務めた。」 (Wikipediaから抜粋)
このほか、昭和42~43年には日本建築学会会長も務められています。
また下関においては、戦後から長年市の顧問的立場におられ、下関市庁舎(田中誠氏ら設計、20017年解体)の建設にも深く関わられた方でもあります。(「田中誠 下関市庁舎」建築雑誌1966.11月号」より)
本体育館は、下関市により38年度国体への使用のため坪井氏に依頼されたものでした。「建築文化1962年8月号」によれば、設計前下関市側から「1)既存の体育館(文献にもない)新しい構造形式をとること」「2)現在市は公会堂を持たないので、集会のための使用条件を十分考慮すること」との条件を提示されたとのこと。坪井氏は構造家らしく、唯一この下関にしかないHPシェルの大屋根のデザインをもって、当時最新鋭の体育館を創り上げたのでした。
坪井氏は、建築家・丹下健三氏と協働して国立代々木競技場や東京カテドラル聖マリア大聖堂などの傑作を生み出した構造家として有名ですが、本体育館は、氏が意匠設計から取り組まれた唯一の作品ともなりました。
◆ 下関市立体育館を紹介した文献等
建築文化1962年8月号 Vol.17 No.190 「下関市体育館」
SD(スペースデザイン) 1965年4月号 「下関市体育館」
ドコノモン 倉方俊輔 2011年 「屋根で勝負した構造家の単独作~下関市体育館」
Casa BRUTUS 特別編集 「ニッポンが誇るモダニズム建築~068下関市体育館」
山口建築ガイドブック (1986年 社団法人山口県建築士会編)
下関近・現代建築ガイドマップ (2002年 山口近代建築研究会編)