2023年6月11日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第70回記事「岩国徴古館」が掲載されました。
この連載も、いよいよ戦前の終わり。回は70回となりました。
今回は、岩国市の吉香公園内にある「岩国徴古館」です。
太平洋戦争も末期の昭和20(1945)年春。国内主要都市は空襲を受け、建設されるのは工場や軍事施設くらいという苦難の時期、この「岩国徴古館」は誕生します。
戦時下の厳しい資材統制の中生まれた奇跡。
そして戦災を免れ80年間存在してきた奇跡。
二つの奇跡を背負いつつ、この建物は今なお吉川家の遺徳を語り続けています。
設計と工事監理を行ったのは、佐藤武夫(1899~1972年)。
佐藤は、旧制岩国中学校から早稲田大学へと進み、当時は同大学教授でした。
さて、この国難の時期、その佐藤はどのような工夫を行ってこの建物を生み出したのでしょうか?
以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(画像がクリアに大きく見えます。画像・文とも無断転用不可。)
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太平洋戦争も末期の昭和20(1945)年春。
国内主要都市は空襲を受け、建設されるのは工場や軍事施設くらいという苦難の時期、この「岩国徴古館」は誕生する。
徴古館とは美術工芸品や歴史資料を保管展示する博物館のことで、鍋島家の徴古館(昭和2年、佐賀市)などの前例があった。
建設の切っ掛けは、最後の岩国藩主吉川経健の弟で、外務官僚、貴族院議員として活躍した吉川重吉の「郷土に図書館と博物館を」との遺志に基づく。
戦時統制下でありながら、この文化施設の建設が許されたのは、この重吉の思いを汲んだ吉川家の強い意向があったからだろう。
設計と工事監理を行ったのは、佐藤武夫(1899~1972年)である。
佐藤は、旧制岩国中学校から早稲田大学へと進み、当時は同大学教授であった。
大隈講堂(昭和2年、国重文)などの設計実績を持っていた彼は、終戦直後設計事務所を立ち上げ、モダンデザインの建築家として多くの作品を残していく。
主要構造体は、壁体がレンガと一部RC、床や小屋組が木の混構造で、外壁全面には「アサマタイル」が張られる。
このタイルは、溶鉱炉で鉱石を溶練した際に生じる「鉱滓」を粒上に成形化した材料で、軽量で耐火性に優れ、かつ安価。
佐藤は、このタイルで全体を重量感のある石造建築に見せ、吉川家の名に恥じない威信ある表現を目指したのだ。
寡黙な外観やロビー内部に対し、陳列室内は饒舌だ。
明るい白漆喰壁、裾の広がった5連アーチ、湾曲した壁に散りばめられた小窓。
天窓からの光も差し込み、明るく豊かな空間が広がっている。
戦時下の厳しい資材統制の中生まれた奇跡。
そして戦災を免れ80年間存在してきた奇跡。
二つの奇跡を背負いつつ、この建物自らが今なお吉川家の遺徳を語り続けている。
(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)
【メモ】岩国市横山2丁目7-19、国登録有形文化財、DOCOMOMO JAPAN「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」選定、参考「戦時下に建設された岩国徴古館の構造材料に関する研究」(原良輔、日本建築学会論文、平成31年)