今回も、「昭和戦後編」に移る前の取材漏れ記事の投稿。
2回目は、「日清講和記念館」です。
明治27(1894)年、朝鮮半島の権益を巡って起こった日清戦争は、日本軍の圧倒的優勢で進み、翌28年3月の日清講和会議で終結します。
この会議及び締結された下関条約の歴史的意義を後世に伝えるため、下関市が42年後の昭和12年(1937)に建設したのが、この「日清講和記念館」なのです。
昭和12年と言えば、日中戦争が始まった年。
この建物建設は、戦意高揚の意味もあったのだと思いますが、社会の教科書でも学んだように、下関が国際舞台として登場した重要な位置づけの会議がこの地で行われていたことを、私たちは忘れてはならないでしょう。
以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(画像がクリアに大きく見えます。画像・文とも無断転用不可。)
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明治27(1894)年、朝鮮半島の権益を巡って起こった日清戦争は、日本軍の圧倒的優勢で進み、翌28年3月の日清講和会議で終結した。
この会議及び締結された下関条約の歴史的意義を後世に伝えるため、下関市が42年後の昭和12年(1937)に建設したのが、この「日清講和記念館」である。
会議会場となったのは紅石山の裾野にある料亭「春帆楼」。清国全権の李鴻章は交渉の期間中、滞在先の引接寺からここまで徒歩で通った。
記念館は料亭南側の隣接地に建てられている。
二階建てに見えるが、吹抜けを持つ平屋建てである。
基礎立上り部は石張り、RCラーメン構造の柱間に下部RC壁、上部ガラス高窓を四方に配し、その上に入母屋の大屋根が乗る。
屋根細部は、破風板中央にある懸魚、軒裏の組物や連続する垂木など伝統的な木造意匠が施されるが、全体は不燃のコンクリートで造られている。
平面は、外陣と内陣からなるお堂の形式。
外陣は玄関と廊下で、壁際には陳列台。
中央に「像安置所」があり、当初日本側全権の伊藤博文と陸奥宗光の胸像が置かれていたが、現在は館外に移設されている。
一方内陣には、大きなテーブルを中心に、黒漆塗蒔絵椅子、実際に使用された調度品などが並べられ、講和会議の緊張感漂う歴史的空間が再現されている。
内陣に貴重な展示物を置き、外陣上部ガラスの高窓から光を取り込む。
これは、毛利邸画像堂(第27回)や長門尊壌堂(第59回)と同じ空間構成だ。
昭和20年、春帆楼も引接寺本堂も空襲により焼失した。
だが、この建物と展示空間は類焼を免れ、下関が国際舞台の地となった歴史を伝える唯一の遺産となったのだ。
「不燃構造で和風意匠の建築を造ること」は、大正、昭和戦前の建築家たちが追及していたテーマであった。
この記念館の設計者も、外装全体を不燃のRCで固めた。
正に先見の明があったと言えよう。
(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)
【メモ】下関市阿弥陀寺町4-3、国登録有形文化財、参考「近代遺跡調査報告書〔政治〕」(文化庁、平成26年)、高月鈴世