• 私たちは、近代建築をテーマに、建築文化や景観まちづくりに関する研究を行っているグループです。

やまぐち近代建築ノート連載 第67回ヒストリア宇部(旧宇部銀行)~戦災と解体免れ活用を継続

▲北西角外観。RC造外壁タイル張りの寡黙な建築。この建物も宇部市民館と同様、奇跡的に被災を免れた。宇部の戦災からの復興を見守った建築でもある
〔上右〕建設当初の古写真。左手奥に古い町並み
〔上中〕昭和32年の改修で3階建て、タイル張りとなる
〔上左〕平成22年のリノベーションで2階建てに減築
〔下右〕新川橋から旧宇部銀行を臨む。この橋も戦災にあわず、この道筋が旧常盤通りであった。銀行の北側壁は、この通りに面して立っている
〔下左〕かつての営業室は現在多目的ホールに。「村野建築模型展」では、松隈洋(京都工繊大教授)先生が解説された(2016年9月)

2023年4月23日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第67回記事「ヒストリア宇部(旧宇部銀行)」が掲載されました。
今回は、あの村野藤吾設計の、宇部市民館に続く宇部での第二弾、現在の「ヒストリア宇部」。
かつて渡辺祐策らが設立した宇部銀の改築です。

その建物は、大正2年建設の木造二階建て銀行でしたが、昭和14(1939)年、村野はこれを強固なRC造の地下1階、地上2階建てとしました。
戦時体制への移行が経済にも暗い影を落としていた時代で、村野が意図していた外壁御影石張りの設計は、モルタル洗い出しに変更されるなど、外観はやや格調を失った形でした。
しかし、内部営業室を吹抜けの大空間とし、大型の縦長ガラス窓や新素材FRP製の天井材を使って、厳しい条件ながらも、質実でモダンな空間を実現させたと言えるでしょう。

この建物、宇部市民館と共に奇跡的に戦災を免れ、戦後は「山口銀行宇部支店」として使われ続けますが、平成17年に、建て替え計画が持ち上がります。

さて、その後、この建物が辿った運命とは…?

以下、全文。(画像がクリアに大きく見えます。画像・文とも無断転用不可。)

—————————————————————————————————————-

宇部市民館(第65回)で当代一流の建築家としての信頼を得た村野藤吾。
宇部での次の依頼は、渡辺祐策らが設立した宇部銀行の改築だった。

真締川そばの角地に建っていた大正2年建設の木造二階建て銀行。
村野は、これを強固なRC造の地下1階、地上2階建てとした。
竣工は、戦時体制への移行が経済にも暗い影を落としていた昭和14(1939)年。
外壁御影石張りの設計がモルタル洗い出しに変更されるなど、外観はやや格調を失う。
だが、内部営業室を吹抜けの大空間とし、大型の縦長ガラス窓や新素材FRP製の天井材を使って、厳しい条件ながらも、質実でモダンな空間を実現させたのだ。

戦後は、山口銀行宇部支店として営業を継続する。
昭和32年には鉄骨で3階が増築され、通り側にはベージュ色のタイルが貼られた。
現在の外壁はこの時のものである。

平成17(2005)年、この建物の建替え計画が浮上。
幸いに、新銀行は隣接地に新築移転したが、残された旧宇部銀行の保存問題は先送りされ、しばら静観状態が続いた。

転換点は、19年3月に開催された「村野藤吾と宇部」のシンポジウムだ。
著名な建築家ら数名が登壇して保存を訴え、集まった聴衆は約300名に達した。
「宇部の文化遺産となる村野藤吾の建築を守れ」との声が、これを機に高まりを見せていく。
20年、山口銀行は建物を市に寄付、そして翌年、ついに市も保存を受け入れた。
その後は、市が建物の活用アイデアの市民募集や、活用ワークショップなどを実施。
そして、22年9月、この銀行は多目的ホールを持つ「ヒストリア宇部」としてよみがえった。

ここに至るまで5年。
長いようだが、価値ある5年だ。
地道な保存活動や、多くの人々の意見を取り入れた活用計画など、市民と共に歩んだ歴史が、再生したこの村野建築の心地良さを生み出しているのだ。

(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】宇部市新天町一丁目1番1号、近代化産業遺産、参考「近代建築遺産は地方都市再生の核となるか」内田文雄、新建築2007年5月号

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です