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やまぐち近代建築ノート連載 第65回宇部市渡辺翁記念会館(旧宇部市民館)~顕彰の精神を芸術文化へ昇華

▲1945年7月、宇部は空襲を受け、市街地は焼け野原に。しかし、この建物は奇跡的に残り、戦後「花と緑と彫刻のまち・宇部」の文化活動の拠点となった
〔上右〕全景。列柱が並ぶ広い基壇、玄関庇、ホール壁、ホール上部屋根と、連続する緩やかな曲面で構成
〔上左〕正面外観はシンメトリーの寡黙なファサード
〔下左〕1階ロビー。大理石仕上げの豪華な列柱が並ぶ
〔下中〕築80周年記念事業で講演される長谷川堯氏。これが氏の最後の講演となった(平成29年9月17日)
〔下左〕2階ロビー。天井が高く、水平窓とガラスブロックからの光であふれる

2023年3月26日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第65回記事「宇部市渡辺翁記念会館(旧宇部市民館)」が掲載されました。
6本の記念塔と基壇、そして三層に重なり合う曲面の外壁。建物自体を神々しい記念碑に見立て、渡辺翁に対する深い顕彰の念を見事に表現した建築と言えるでしょう。
村野の初期作品の傑作です。
また、自らが「私の出世作」と語ったように、この建物の建設以後、村野は宇部市ほか全国各地に多くの建築作品を生み出していきます。現在7つの村野作品を持つ宇部は、「村野建築の聖地」として全国が注目しているのです。
その村野建物の価値と魅力を世に広く知らしめたのは建築史家・長谷川堯(1937~2019)です。氏は、築80周年を祝う平成29年秋、病魔に冒されながらも、ここのステージに立って講演されました。
その時に、残された記念館と市民へ最後のメッセージとは…。

以下、全文へ。
(画像・文とも無断転用不可。)

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昭和9年、宇部の発展に貢献した渡辺祐策(1864~1934)が逝去。
「渡辺翁記念事業委員会」は、「宇部市民館」を建設し、市に寄贈することを決定する。
翌10年着工、12(1937)年に竣工したのが、この建物だ。設計は、「そごう大阪店」で注目を浴びていた建築家・村野藤吾(1891~1981)に依頼された。

正面の広場前方、中央に基壇と左右6本の列柱。これらは、渡辺が興した7つの会社を象徴している。
玄関前には大きな水平の庇。建物の前面壁、後面壁、そしてペントハウスの壁と、緩やかに湾曲した3層の壁の重なり。
どの壁面も、独特のこげ茶色の塩焼きタイルで覆われ、重厚で寡黙な印象を与える。
村野は建物自体を神々しい記念碑に見立て、翁に対する深い顕彰の念を見事に表現した。
玄関を入ると、豪華な大理石貼りの無梁版構造の丸柱が並んだロビー。
階段は両脇に配され、側壁の高く積まれたガラスブロックからの光が落ちてくる。
さらに進むと、逆スラブの曲面天井と大きな吹抜けのある客席と舞台が出迎える。

  この建築は、自らが「私の出世作」と語ったように、以後村野は、宇部市ほか全国各地に多くの建築作品を生み出していく。現在7つの村野作品を持つ宇部は、「村野建築の聖地」として全国が注目する。
その村野建物の価値と魅力を世に広く知らしめたのは建築史家・長谷川堯(1937~2019)だ。
氏は、築80周年を祝う平成29年秋、病魔に冒されながらも、ここのステージに立って講演された。
「…私はもう間もなくいなくなるでしょうけど、おそらくあと50年、100年宇部の市民の皆さんに愛され、続いていくだろうなぁ、本当に素晴らしいことだなぁ、と思います。」との言葉が心に残る。

これは、記念館と市民への遺言である。歴史を重ねたこの建築は、また一つレガシーを加えたのだ。

(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】宇部市朝日町8番1号、国指定重要文化財、参考「村野藤吾の建築 昭和・戦前」(長谷川堯、平成23年)

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