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やまぐち近代建築ノート連載 第61回 萩・明倫学舎(旧明倫小学校)~木造小学校の華麗なる転身

▲入母屋屋根フランス赤瓦葺き。正面は千鳥破風で飾り、軒先には鴟尾が乗る。1階簓子下見板張り、2階白漆喰塗り。玄関ポーチ柱の帯状意匠が独特だ
〔上右〕新旧配置図。旧校舎は敷地西側に広がっていた。講堂移転後、東側敷地に本館棟、教室棟3棟が平行に配置された。(参考を加工編集)
〔上左〕本館階段室。親柱はセセッション様式。階段は各棟とも中央と東西二か所の計三か所
〔下右〕本館棟西側の教室は、現在「天井裏見学室」となり、構造軸組を見ることができる
〔下左〕京都の龍池小学校(昭和4年、RC造3階建て)は、現在「国際マンガミュージアム」に

2023年1月22日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第61回記事「萩・明倫学舎(旧明倫小学校)」が掲載されました。

現在は観光拠点となっているこの大規模木造施設は、昭和10(1935)年に竣工した旧萩市立明倫小学校の校舎群。
そもそもここは享保4(1719)年開校の歴史を誇る防長最高学府「藩校明倫館」の跡地で、明治18年、「明倫小学校」として開校しました。
以後、時代と共に校舎は増改築を繰り返していました。

今回は、『明倫小学校百年誌』等萩市の資料により得た、この昭和の校舎群建替えについての新たな知見について記載しています。

以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(画像がクリアに大きく見えます。画像・文とも無断転用不可。)

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萩市中心部の江向に、現在観光拠点として多くの客でにぎわう「萩・明倫学舎」がある。堂々たる外観を持つ4棟の木造大規模建築は、昭和10(1935)年に竣工した旧萩市立明倫小学校の校舎だ。
ここは、享保4(1719)年開校の歴史を誇る防長最高学府「藩校明倫館」の跡地で、明治18年、「明倫小学校」として開校した。以後、時代と共に校舎は増改築を繰り返している。今回、『明倫小学校百年誌』等萩市の資料により、この昭和の校舎建替えについて、新たな知見を得た。

一つは、主に西側敷地側に建設されていた校舎群を、全面的に敷地東側に移すこととしたこと。
新校舎は、桁行90mもの長い2階建て4棟が平行に配置される計画。
その際障害となったのは、ほぼ中央に建つ故藤田伝三郎の寄付により大正3年に建設された大講堂だったが、これを曳家移転し、事業は前に進んだ。
もう一つは、この事業で中心的役割を果たしたのが、山口県出身の建築技師、清水清(1883~1964)だったこと。
工手学校卒で、国や岐阜県での勤務実績があった。
本工事を請け負ったのが、名古屋の株式会社岐阜木材であり、山口と岐阜をつなぐ地縁が関係して彼が選ばれたのだろう。
清水は、外観意匠について、「日本趣味を多分に採り入れ、簡素を旨」とした。
本館棟の玄関ポーチ柱や階段室周りに若干の洋風意匠が見られるものの、全体は伝統的な和風様式を基調に手堅くまとめた印象だ。

平成26年、小学校は北西隣地に再び全面移転する。
だが萩市は、残された4棟全てを保存し、数年かけて大規模なリノベーションを行った。
「まちじゅう博物館」構想に向けての強い意志を感ずる見事な決断だったと思う。
明倫学舎に続き、自治体が古い校舎の再生活用を図り、地域を元気にする事例がもっと増えてほしいものだ。
(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】 萩市江向602、国登録有形文化財、参考「明倫小学校百年誌」(萩市、昭和60年)山口県立図書館蔵、「萩市報~明倫校の改築工事に就いて」(清水清、昭和9年)

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