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やまぐち近代建築ノート連載 第59回 旧下関市立長府博物館本館(元長門尊壌堂)~石に身を包む新時代のお堂

▲東側正面外観。RC造石張りで組積造に見せ、正面庇下には西洋の列柱が立つが、全体は裳階を持つ伝統的なお堂のような造型をなす
〔上右〕配置及び平面図。本館と別館がL字型につながる。展示室四隅は、館長室、事務室など
〔上左〕南東側外観。本館南側には「明治天皇御製碑」、「万骨塔」(同年建設)が立つ
〔下右〕展示室内の古写真。上部には採光用の高窓が並ぶ (下関市立歴史博物館提供)
〔下左〕明治36年建設の尊壌堂は煉瓦造スタッコ塗り、擬洋風の外観である。現存し、国登録有形文化財(京都大学構内、2003年撮影)

2022年12月11日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第59回記事「旧下関市立長府博物館本館(元長門尊壌堂)」が掲載されました。
尊壌堂とは聞き慣れない名称ですが、幕末の尊王攘夷で倒れた志士たちを祀ったお堂のことです。
吉田松陰の遺志を継いで、明治20年品川弥二郎が京都市高倉に創設し、明治36年には京都帝国大学構内に移設新築されました。
その30年後、弥二郎の「長門国にも同様の施設を」との思いを、長府出身の桂弥一が実現させたのがこの建物なのです。
設計者潮見長彦は山口県の熊毛郡室積(現光市)出身。
彼は、この施設をどのように考え、そして「新時代のお堂」として造り上げたのでしょうか…。

以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(画像がクリアに大きく見えます。画像・文とも無断転用不可。)

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幕末に高杉晋作が挙兵し、維新回天の地として知られる下関の功山寺。その境内の南に隣接して建つのは、「旧長府博物館」である。
もとは昭和8(1933)年、「長門尊壌堂」として建てられたものだ。
尊壌堂とは聞き慣れない名称だが、幕末の尊王攘夷で倒れた志士たちを祀ったお堂を言う。
吉田松陰の遺志を継ぎ、明治20年、品川弥二郎が京都市高倉に創設、明治36年には京都帝国大学構内に新築された。
その30年後、弥二郎の「長門国にも同様の施設を」との思いを、長府出身の桂弥一が実現させたのがこの建物なのだ。

設計者は、熊毛郡室積(現光市)出身の潮見長彦(1890~1962)。東京高等工業学校卒、で、下関や北九州を中心に設計活動を行った人物だ。
構造は、志士たちの肖像や遺墨などの歴史資料を災害から守るため、耐火、耐震を考慮したRC造。
外壁には徳山産の平野石を張って西洋建築に見せる一方、屋根は反りのある寄棟本瓦葺きで、伝統的な日本の様式を持つ。
昭和初期には、こうした和洋折衷スタイルが流行るが、潮見独自の工夫は、平面計画や空間構成にも見られる。
中央の展示室をお堂の内陣に見立てて二層吹き抜けとし、四方に外陣となる低層の裳階を巡らす造型。
国宝の功山寺仏殿と対比させ、「昭和の尊壌堂」に相応しいお堂の創造を目指したのだろう。
晩年、彼は「生涯において、この建物の設計施工は、最も苦心し、最も会心の完成、歓喜の作品である」と語っていたと言う。

この建物、数年前に新博物館が近くに建設され、現在は活用を模索中のようだ。
松陰の構想から様々な人々が奔走し、長府の地に実現して90年。
今一度原点に立ち返り、残された空間を明治維新に特化した展示や歴史好きが活動する場などに活用できないものか。
地域の歴史と物語を語り続ける、それがこの建物が担った使命なのだから。

(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】下関市長府川端1-2-5、国登録有形文化財、参考「城下町長府の文化~長府博物館50年の歩み」(長府博物館友の会、昭和58年)

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