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やまぐち近代建築ノート連載 第57回旧小川村役場庁舎~消えゆく村落共同体の絆 守る

▲南東側外観。木造二階建て、寄棟屋根スレート葺き。外壁モルタル塗り、腰壁人造石洗出し。腰折れ屋根下には小川村の「小」文字を象った紋章がある
〔上右〕1階平面図。2階建ての主屋に、北と東に平屋が取り付く(参考資料内の平面図を加工)
〔上左〕1階役場事務室内の古写真。当時の職員は、村長他11名(「目で見る萩・長門の100年」P.62より/山口県立山口図書館蔵)
〔写真〕2階議場床下。1階スパン10mの大空間を支えるのは、梁成60cmの大梁
〔写真〕階段室内の手すりは、幾何学模様で構成されるセセッションの意匠
〔下左〕北東側外観。庁舎は縦長窓が並ぶ。蔵造りの書庫は、建設前から建っていたものか

2022年11月13日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第57回記事「旧小川村役場庁舎」が掲載されました。
小川村は、もと阿武郡内にあった村で、後阿武郡田万川町と合併、更に現在は萩市の北東端に位置しており、東隣は島根県です。
そんな中国山地の一村落にもこうした近代建築が残されていました。

昭和戦前期までは県内に多くの村や町があり、洋風庁舎も多数存在していましたが、合併等を機に用途を失い、老朽化と共に消えていったものも多いのです。
しかし、この建物は、合併後も町の支所や農協事務所などに使われ続けました。
平成25年の豪雨災害時にも被害を受けず、復興のシンボルとして住民の心の支えにもなったのです。
昭和7年建設のこの庁舎、何と現在「旧小川村のシンボルを消すな」と、保存活用の動きがあることを知り、感動しました。
そうした「村落共同体の絆」を守ろうとする動きとは…?

以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(画像がクリアに大きく見えます。画像・文とも無断転用不可。)

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小川村は、もと阿武郡内にあった村。現萩市の北東端に位置し、東隣は島根県だ。そんな中国山地の一村落にも近代建築が残されている。
昭和7(1932)年建設の「旧小川村役場庁舎」。南に田万川が流れ、北の小山を背景とした小高い位置に建つ。
大工棟梁の堀江千與市らが建設した独特な腰折れ屋根を持つ洋風庁舎だ。

総2階建ての主屋と平屋建ての付属屋からなり、1階は役場用、2階は議会用。主屋1階は、事務室を中心に、村長室、応接室等があり、廊下で北側の書庫とつながる。
正面玄関は住民や議員、平屋側玄関は村職員が使った。
2階は東側が議員側、西側が議長・行政側の対面式議場。
議会時に議員は東階段を、また、議長や村長らは西階段を使用したと考えられる。

昭和戦前期までは県内に多くの村や町があり、洋風庁舎も多数存在したが、合併等を機に用途を失い、老朽化と共に消えていった。
だが、この建物は、合併後も町の支所や農協事務所などに使われ続ける。平成25年の豪雨災害時にも被害を受けず、復興のシンボルとして住民の心の支えにもなった。

しかし、現在は空き家だ。
建設後90年、外壁の劣化も進んでいる。
「解体止む無し」との声も上がる中、建設に尽力した当時の村長、須郷要介の孫である須郷昌徳氏が、小川村のシンボルを守れと、自らがこの建物の所有者になった。
更に須郷氏のこの姿勢に力を得た地元住民ら約20名は、令和3年12月、「旧小川村役場建物保存検討会」を立ち上げた。
どのように活用するか、文化財とならないかなど、現在も模索中だ。

今後、例えばクラウドファンディングで改修費を募るなどの情報発信を全国に向け展開してはどうだろう。
歴史的価値と共に心を打つ物語を持った建物を残そうとするこの動きは、多くの人々の賛同を得るのではないか。

(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】萩市中小川3143、参考「JAあぶらんど萩小川支所(旧小川村役場)調査報告書」九州大学建築史研究室(平成29年2月)

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