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やまぐち近代建築ノート連載 第55回防長尚武館(旧歩兵第四十二聯隊演武場)~和洋折衷の変遷 転用と共に

▲南側外観。入母屋造りの大屋根に千鳥破風の車寄せが取り付く。蟇股や木鼻といった寺社建築の伝統的意匠が見られるが、縦長上げ下げ窓は洋風で、折衷様だ
〔上右〕現第1展示室内部。展示室は4室あり、第42聯隊の他、寺内親子元帥の遺品、郷土の偉人などを紹介している。
〔上左①〕現尚武館の外壁の一部。漆喰塗真壁に縦長窓だが、もともとは②の形だったと思われる
〔上左②〕当時の武道館の標準的な外壁の一部。換気を考慮し、欄間、横長窓がある(会津武徳殿)
〔下右〕本体西壁外観。現第一展示室裏に残された暖炉と煙突の跡
〔下左〕ほぼ同時期に建設された「岩国練武場」。寄棟瓦葺き、車寄せは唐破風、昭和2年建設。こちらは国登録有形文化財

2022年10月9日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第55回記事「防長尚武館(旧歩兵第四十二聯隊演武場)」が掲載されました。全体的には伝統的和風でありながら、すこし奇妙な柱割りに、なぜか縦長の上げ下げ窓…。
大きく変化したのは、たぶんGHQの進駐に伴う連合軍司令官宿舎として使用された時だとにらんでいます。
和風の武道館を洋風の住宅にするため、間取りと外観を変える…。
その時の関係者、大工たちの気持ちはどんなものだったでしょう。

しかし、現在はその間取りを活かし、立派な展示館として再生しています。
建物の運命とは、わからないものです…。

以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(画像がクリアに大きく見えます。)

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山口市北東部にある陸上自衛隊山口駐屯地は、旧陸軍歩兵第42聯隊(明治29~昭和20年)が平時に駐在していた軍事基地であった。
この広大な敷地の一角に「防長尚武館」が静かに建っている。

この建物、元々は昭和4(1929)年、毛利家からの寄贈により建てられた隊員用の武道場だった。
棟札には、工事設計監督として陸軍技手の望月貢造と平室文雄の名がある。
年代的に旧武徳殿(第52回で紹介)と同様、昭和御大典記念の施設だったかもしれない。

武道場として使われたのは約20年。
戦後は、GHQの進駐に伴う連合軍司令官宿舎、撤退後は聯隊長宿舎などに使用された。
昭和40年、寺内正毅・寿一両元帥関連の遺品寄託もあり、新たに聯隊の歴史などを紹介する「防長尚武館」として開館。
以後、60年近くが経過した。

武道場→宿舎→史料館と変遷したこの建物は、どのように改修を受けたのか、推理してみる。
建設当初は武術の修錬を行う運動施設であり、場内は一部屋、漆喰塗り真壁に中連窓を持つ伝統的和風の外観だったと思われる。
それが、外国人である連合軍司令官の宿舎に転用された際、大きく変化する。
間取りは居間、寝室など大小6部屋となり、内装や設備は洋風に。
また、外壁も間取りに合わせて柱割りを変更し、洋風の縦長窓に取り換えたのではないか。柱、梁、窓枠の色も、その時に赤褐色に塗り替えられた。
その後、史料館として活用される際に、間取りを活かして展示室とし、天井などの内装を再び和風に戻したのだろう。

陸上自衛隊の敷地内に、このような地域の史料館が残されているのは、全国的に見ても珍しい。
近くには、山口県護国神社、旧桜圃寺内文庫(第31回)、寺内親子の眠る墓もある。
時には、これら遺産を見つめ直し、日本の礎となった人々や、平和の尊さに思いを巡らせることも大切ではないだろうか。

(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】山口県山口市宇野令784、参考「防長尚武館~その歴史を伝える」(防衛省陸上自衛隊山口駐屯地)

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