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やまぐち近代建築ノート連載 第40回 萩駅舎~維新の古里にも西洋の新風

▲北側外観。柱梁などの構造材を壁面に見せるハーフティンバー、大小3つのドーマーウインドウ、欄間を持つ上げ下げ窓など洋風意匠を随所に見せる。
〈右〉駅舎前の「井上勝志気像」。東京駅丸の内駅前広場の北西端には、老年時の像が立つ。萩と東京が二つの井上像でつながっている
〈左上〉プラットフォーム。片流れトラスの束材と柱の方杖が一体となった珍しい形の小屋組だ
〈左下〉陸橋から撮影。静かな郊外地に立つ無人駅だが、折しも山陰線観光列車「〇〇のはなし」が到着し、少し賑わいが戻った

2021年12月5日(日)、山口新聞の「地域文化」欄に、第40回記事「萩駅舎」が掲載されました。
長州藩の本拠地であった城下町「萩」は、明治以降、近代の発展からはやや遅れをとったためか、市内に近代建築はあまり見当たりません。
鉄道の建設の経緯を見ても、山陽線は明治34年、大嶺線は明治38年に開通していますが、美祢線(現山陰本線)延長として長門三隅-萩間が通ずるのは、ようやく大正も後期になってからなのです。
その美祢線の開通に伴って建設されたのが、この萩駅舎で、大正14(1925)年となっています。
ハーフティンバー様式の明るく瀟洒な洋館駅に、待ち望んでいた蒸気機関車と、町は祝賀ムードにあふれたことでしょう。
では、この凝った意匠を持つ駅舎の設計者はだれなのでしょう?

以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(画像がクリアに大きく見えます。)

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江戸時代、長州藩の本拠地であった城下町「萩」。
明治以降は、近代の発展からはやや遅れをとった。
地域の経済や文化に多大な影響を与えた鉄道の建設にしても、山陽線明治34年、大嶺線明治38年の開通に対し、美祢線(現山陰本線)延長の長門三隅-萩間が通ずるのは、ようやく大正も後期になってからだ。
この萩駅舎は、大正14(1925)年、その美祢線の開通に伴って建設された。ハーフティンバー様式の明るく瀟洒な洋館駅に、待ち望んでいた蒸気機関車がやってくる。町は祝賀ムードにあふれた。

凝った意匠を持つこの建物の設計者は判明していない。
だが、当時鉄道省は、久野節(1882~1962年、東京帝大卒)を頂点に、工務局建築課や地方事務所に多くの技術者を抱えていた。
同時期、出雲大社前の大社駅(大正13年、丹羽三雄設計、国重文)や、明治神宮近くの原宿駅(13年、長谷川馨設計、解体後復元予定)など、地域の歴史や風土に配慮した木造駅舎が竣工している。
この駅舎も、維新の古里「萩」と、その地に生まれた「日本鉄道の父」井上勝(1843~1910年)への敬意の念を持つ鉄道省が、その思いをこの姿形に表現したのではないだろうか。

この山陰線の路線は、萩中心部を通らず、三角州を大きく迂回した。
このことが、現在も町の風情や街並みを保つことになったとも言えるが、郊外地に建つ駅舎の不便さは否めず、拠点は次第に東萩駅に移って行った。
昭和40年代には道路網も整備され、貨客も更に減少、昭和54年からはついに無人駅となった。

しかし、この建物は多くの市民に愛されていた。
平成10年、復元改修工事が施され、観光拠点の「萩市自然と歴史の展示館」として再生、井上の業績を伝えるコーナーも設けられた。
そして、駅前広場には、駅舎をバックに、萩の町の未来を見つめる若き日の井上の銅像が立っている。

(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】萩市椿3537-3、国登録有形文化財、参考「鉄道省における営繕組織と駅舎意匠の設計体制」(佐々木元ほか、日本建築学会、平成25年)

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