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やまぐち近代建築ノート連載 第19回 「旧小野田セメント山手倶楽部及び別館」~夢を形に 自社製真三ブロック~

▲ 小野田セメント山手倶楽部外観
▲ 食堂居間、南側ベランダ、別館、旧小野田銀行

2021年1月24日(日)、山口新聞に第19回記事が掲載されました。
今回から大正時代。大正3年に建設された「旧小野田セメント山手倶楽部及び別館」。
倶楽部建築とは、民間企業の役員などの社交場として使用されたもの。
当時の企業の繁栄と豊かな暮らしぶりを今に伝えてくれます。
そんな建築が、小野田にも残っているのです。
以下、「山口近代建築研究会HP」へ。(全文掲載、画像もクリアに大きく見えます。)
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今回からは大正時代。その最初を飾る「小野田セメント山手倶楽部」は、大正3年(1914)の建設だ。
倶楽部建築とは、民間企業の役員などの社交場として使用されたもので、当時の企業の繁栄と豊かな暮らしぶりを今に伝えてくれる。
全国的には、綱町三井倶楽部(大正2年、設計J.コンドル)や門司三井倶楽部(大正10年、松田昌平)などが残されている。

この建物の最大の特徴は、表面に独特の意匠を持つコンクリートブロックと、それらを積み上げた組積造の堂々たる外観。
これには、笠井順八の次男真三が深く関わっている。
秀才の誉れ高かった彼は、井上馨やドイツ人ワグネルの尽力もあって18歳でドイツの理工系大学に留学、その際欧州各地のセメント工場を視察していた。
明治29年に帰国後、小野田セメントの技師となる。
彼はその十数年後、欧州から持ち帰っていた型枠を基に、自社のセメントでブロックを製造、それを構造体とした西洋館を造るという長年の夢を叶えたのだ。

一方、車寄せのトスカナ式の柱や三角破風、連続する縦長窓、また内部階段の親柱などの意匠の確かさには、建築教育を学んだ人物の存在を感じる。
私は、のち工場本社事務所の設計にも携わり、建築材料学の権威となる、若き日の吉田享二(明治45年東京帝国大学工科大学建築学科卒)が実施に関わったと推察している。

海岸側に位置する徳利釜(明治16年、第6回で紹介)は、創業者笠井順八ゆかりのもの。一方、山手側にあるこの建築は、真三ゆかりの記念碑とも言えるだろう。
わずか30年の時を経て、武骨な煉瓦の窯から華麗な西洋館を構えるまでになった笠井家の繁栄。
真三は、その後四代目の社長となり、父の遺志を継ぎ、セメント生産の拡大に努めた。
時には、ベランダから、建ち並ぶ徳利窯の煙突を、父の姿に重ねて見下ろしていたことだろう。

(山口近代建築研究会、一級建築士・原田正彦)

【メモ】山口県山陽小野田市東住吉、施工藤井乙三郎、内装野村伸、国登録有形文化財、参考「笠井真三伝」(昭和29年、編纂委員会)

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